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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「サルモン岬」 10

2010年11月30日 | 海南島史研究
 11月10日に掲載した「サルモン岬」5に書きましたが、「第103震洋隊」の指揮官だった益田義雄氏は、その著書『還らざる特攻艇』(1956年、鱒書房)で、「第103震洋隊」のあった地域を、「サルモン岬」あるいは「猿門山」などとし、「私ら第103震洋隊の駐屯したサルモン半島には、約二百名の民が平和な生活を送っていた」、「キャッキャッと付近で猿がさけぶ。この地が猿門と呼ばれる理由はこの猿が原因で、小さいモンキー猿である」と書いています。
 しかし、「第103震洋隊」基地周辺地域には、野生の猿は当時もいまも住んでいません。「第103震洋隊」基地跡から2キロほど離れた三亜市鹿回頭村(現、兄弟村)に生まれ育った羅煥高さん(1938年生)は、猿をここで見たことはないと話していました。

 「第32震洋隊」の基地は、現在の陵水黎族自治県新村鎮石頭村につくられていました。
 その地域には、むかしから野生の猿がたくさん住んでおり、いまは、南湾猴島南湾自然保護区とされています。
 「第103震洋隊」に所属する益田義雄氏は、「第32震洋隊」基地に行ったとき、「キャッキャッと付近で猿がさけぶ」風景を見たことがあるのかも知れません。かれは、日本に戻ってから、その風景の場所を「第103震洋隊」基地の場所と混同錯覚し、さらに「サロモン」を「サルモン」をしたうえで、「サルモン」に「猿門」という漢字をあてはめたのだろうと思われます。
 この問題は、ささいな錯覚という問題ではなく、海南島に侵入した日本軍人の思想と感性にかかわる問題だと思います。海南島の地名が日本語でないことを自覚していれば、そこに猿が住んでいようといまいと、「サルモン」という海南島の地名に、日本語を当てはめることはできなかったでしょう。

 「第32震洋隊」に所属していた人たちは、日本に戻ってから「三二震洋会」という会をつくりました。事務局長は、「第32震洋隊」の隊長だった大沢芳夫氏でした。「三二震洋会」は、1985年4月に、大沢芳夫氏が執筆した『第三二震洋特別攻撃隊』を出版し、1988年5月に、はじめて海南島に行き、さらに、その11年後の1999年2月に再訪しました。そのとき、大沢芳夫氏は、「南湾嶺麓住民の皆様へ」という文章を発表しようとしました。そこには、
    「私達は太平洋戦争末期の1945年2月から約1年間、旧日本海軍の震洋特攻
   隊員として南湾嶺麓の基地に駐留していた者です」。
    「私達にとって海南島は終生忘れることのできない思い出の地であると同時に、
   その過程で現地住民に大変ご迷惑をおかけしたことに対する贖罪意識を引きずっ
   ている所なのであります」。
と書かれていました。
 この文章の漢語訳文を大沢芳夫氏は、住民に手渡そうとしましたが中止しました。その内容は2年近くたってから、『海南日報』(2000年12月22日号)に、「侵華日軍老兵向新村人道歉 為50多年前日本“震洋特攻隊”給当地人民造成的苦難贖罪」と題して紹介されました。その数年後、大沢芳夫氏は亡くなりました。
                                      佐藤正人
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