三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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李西根さんの証言 1

2010年11月27日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 きょう(11月27日)、ソウルで李西根さんに再会し、話を聞かせてもらいました。
 以下は、前回(10月5日)の証言と今回の証言を重ね合わせた記録の要約です。
 このブログの、10月5日の「金永振さんと李西根さん」と10月21日・22日の「海南島の朝鮮人兵士」11・12を参照してください。
                                佐藤正人


 平安南道安州で生まれ育った。
 1943年秋に、安州で海軍特別志願兵の試験を受けた。当時わたしの父が経済犯でつかまっており、わたしが志願しなければ父が商売できなくなるような状況だった。わたしは、男ばかり7人兄弟の長男だ。強制されるよにして志願した。平壌で身体検査と面接審問を受けた。
 “アッツ島はどこにあるか。コレヒドールはどこにあるか。日本海軍をどう思うか”などを聞かれた。
 合格したあと、どうしても行きたくないし、友だちが“どうして日本の海軍に入るのか。逃げたらいいのではないか”と言ったので、ハルビンに逃げようとした。わたしは新聞を読んでおり、アッツ島で日本軍が全滅したことを知っていた。ミッドウェーで日本海軍が大敗したことも知っていた。
 逃げようとする直前、家に警察が来て、鎮海に行くまでは家を出るなと言った。
 10月1日に海軍特別志願兵第一期生として鎮海の特別志願兵訓練所に入って、1944年3月に卒業し、鎭海海兵団に入った。鎭海海兵団は6月30日に卒業した(鎭海海兵団第一期生)。海兵団に入った韓国人は996人だった。
 7月10日に休暇があり、海南島に行く人たちだけ、700人が休暇をもらった。鎭海海兵団団長、海軍大佐さとうくにおの命令だった。2人が事故で海南島に行けず、海南島にいったのは698人だった。
 ほかの300人近くは、舞鶴とか佐世保とかに行った。
海兵隊を組織するとき、配置を決める。海兵隊の訓練が終わったとき、海南島に行くと知った。鎭海にいるときに、海南警備府舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に配属されていた。
 海南島に行くとき、9月9日に、台湾とフィリピンの間の海で、船が魚雷で攻撃されて沈没した。助かったの300人くらいだった。フィリピンの北サンフェルナンドに上陸した。
 そこから汽車でマニラに行った。マニラで、はじめはカトリック寺院に収容された。 海軍第31特別根拠地隊に配属され、砲術科倉庫の警備兵となった。マニラからバタンガスまで何度か輸送警備した。コレヒドールがあぶなくなったのでフィリピンに残らされそうになったが、海南島の海軍から、海南島に行く予定の兵士を早く海南島に送るようにと要請があったので、海南島に行くことになった。
 11月9日に勝浦丸に乗って海南島に向かった。乗ったのは全部で300人ほどだった。勝浦丸の船倉には仕切りがつくられ、寝場所がつくられてあった。日本の下士官もいたが、ほとんどは朝鮮人兵士だった。そのなかに舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の朝鮮人兵士が52人か53人いた。勝浦丸がどこから来たのかはわからなかったが、海南島に行くという女性が4人乗っていた。暗号士だと言っていた。
 11月11日夜があけてまもなく、太陽がまだ昇っていないころ、ベトナム沖で勝浦丸が魚雷をうけて沈没した。わたしは、船が沈没する前に残っている者がいないか確かめていたので他の人たちより遅く海に飛び込んだ。何かにつかまって4~5時間漂流していたら第18海防艦に救助された。てサイゴンに上陸した。漂流しているとき、海に軍票がたくさん浮かんでいた。勝浦丸は軍票を運んでいたらしい。わたしは100円軍票と10円軍票を何枚かひろった。海防艦に乗ってからそれを煙突に貼り付けて乾かした。
 海防艦でサイゴに着き、サイゴンからタンソンニャットに行った。タンソンニャットにはフランス軍の基地があった。当時フランスは日本と友好関係にあった。フランス軍基地の向かい側に遭難した日本軍人たちの収容所があって、そこにはいった。
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