三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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李西根さんの証言 3

2010年11月29日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 船は、三亜から広州に寄った。そこでも朝鮮人が乗った。1000人くらい乗った。広州からは慰安婦の女性たちも乗った。
 広州から乗った朝鮮人の総責任者は、崔徳新だった。「朝鮮士兵集訓総隊」と書いたのぼりを持って乗ってきた。広州から「朝鮮士兵集訓総隊」の人たちが乗船する前に、崔徳新とは何回も会議をした。
 船に乗っていた舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の隊員が44人いた。44人のほかに朝鮮航空の2人をいれて、46人全員の名簿をつくった。名簿の最初に「舞特会」と書き、各自の住所などを書いた。
 釜山に着くころ船の中でコレラが発生し、収まるまで上陸できなくなった。1か月ほど、船のなかで待っていた。上陸したのは、4月24日だった。
 韓国は分断されていた。38度線を越えたら、ロシア兵につかまった。背嚢を調べられた。葉巻を10本、全部とられた。「舞特会」の名簿が何かの組織の名簿だと思われ、逮捕され、海州の刑務所にいれられた。1か月ほどいれられた。名簿は没収されてしまった。
 平安南道安州の家についたのは6月だった。母は、毎日、駅に行ってわたしの帰るのを待っていたという。
 帰ってから10日もたたないときに、郡人民委員会の人が来て、明日出頭しろと言った。行ったらロシア軍の大尉がいた。女医だった。ウラジオで4年間日本語を学んだ人だった。その助手をやれと言われ、それから安州の村を病人がいないか調査して回った。そのとき、帰国するとき広州から乗った女性に再会した。わたしより2歳年上の人だった。
 2か月ほど、ロシア兵の行動や人民委員会のやりかたをみていると、自分はここでは生きておられないと思った。南に行くことにした。平壌駅にいくと、小学校のときの同級生に出会った。かれが鉄道警備の仕事をしていたので、汽車の切符を買ってもらうことができた。
 歩いて38度線を越えた。
 日本に行こうと考えて釜山に行った。そこで所持金を盗まれてしまった。
 ソウルに行き、親戚の商売の手助けをしたが、1948年に韓国軍ができたとき、海兵隊の幹部候補生になり、1950年1月14日に海軍少尉になった。
 韓国戦争が始まった6月25日には、済州島にいた。
 1950年に、4日前(11月23日)北の軍隊が砲撃した大延坪島の韓国軍の部隊長になった。
 1969年3月30日に退役し、その年の6月にベトナムのダナンに行って技術訓練所の所長になった。3年間いた。
 最初1人で南に来たが、あとから3人の弟が来た。両親とあとの兄弟は、故郷に残った。
 両親に会えないまま、64年がすぎた。
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