三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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四日市調査報告

2010年11月19日 | 紀州鉱山
 2010年6月5日に、石原産業四日市工場で働かされていた朝鮮人について知るために、石原産業四日市工場を訪問しました。
 四日市工場で働かされていた朝鮮人の宿所があった場所の近くに、1959年の伊勢湾台風で亡くなった29人の従業員の追悼碑と四日市工場で死んだ連合軍捕虜の碑が建てられていました。連合軍捕虜の碑の横には、なぜか、「占領軍兵士の墓碑である」という説明板がありました。
 1944年8月に石原産業四日市工場敷地内に大阪俘虜収容所第17分所が開設され、イギリス軍とオランダ軍とアメリカ合州国軍の「捕虜」600人が連行され、強制労働させられていました。
 「占領軍兵士の墓碑」がいつ、何のために建てられたのか、なぜ、「連合軍捕虜」が「占領軍兵士」とされたのかなどを、木村博総務部長に尋ねましたが、「なんにも解りません」との返答でした。「当時、朝鮮人が働いていたことについても詳しく解らないし、社史などの資料も一切なく、当時を詳しく知る人はもう退職しているので、なにも解らない」というのが木村総務部長の返事でした。

 その後、石原産業四日市工場の近くにある栄信寺と西願寺を訪問して、1940年から1945年当時の石原産業のことや、そこで働いていた朝鮮人のことを尋ねました。
 わたしたちは、あらかじめ、石原産業四日市工場の近くにある、法柳寺、栄信寺、法泉寺、西願寺、萬性寺に、調査への協力を願いしていました。
 西願寺の芳山和浩住職は、19世紀後半以後の過去帳をすべて見て、「創氏・改名」させられていた人のいたことを考え朝鮮人と思われる名前も探し、朝鮮人の名前を書きぬいておいてくれました。そこには、1940年から1945年までの間には、朝鮮人の名前はありませんでした。

 翌日(6月6日)四日市に在住の朝鮮人の女性に会って話を聞かせていただきました。
このかたは、
     「小学校5年生とき滋賀県からここに来た。後になってから200人ほどの捕虜
    が働かされていたことを聞いたが、それ以外に、あまり石原産業のことについて
    は知らない。母(97歳)なら知っているだろうが今は施設に入所しているので話
    を聞くことはできない」
ということで、石原産業のことは、ほとんど聞けませんでした。ただ、この女性の知人で詳しく知っていると思う人がいるので、後日、その人と会うときは紹介すると言ってくれました。
 その後、今は鈴鹿に在住しており、当時は、夫婦で紀州鉱山で働いていたという人を自宅に訪ねて話を聞かせてくださいと頼んだのですが、会ってくれませんでした。

 今回は、石原産業四日市工場で働かされていた朝鮮人のことをあまり知ることができませんでした。今後、さらに調査を進めていきたいと考えています。
                                     竹本 昇
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