三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「サルモン岬」 1

2010年11月05日 | 海南島史研究
 地図と水路図は、侵略国が、他地域・他国を軍事侵略するための重要な資料です。
 他地域・他国を侵略する過程で「成長」した国民国家日本は、「維新クーデター」以後、ただちに、精密な地図と水路図の作成をはじめました。
 国民国家日本は、1869年9月に、アイヌモシリの一部を「北海道」と名づけて日本の領土(植民地)とし、1879年3月に、琉球王国を滅亡させて「沖縄県」と名づけて日本の領土(植民地としました)。
 日本政府が、兵部省海軍部水路局を設置したのは、アイヌモシリ植民地化2年後の1871年でした。兵部省海軍部水路局は、1886年に海軍水路部になりました。
 アイヌモシリ植民地支配の機関である「開拓使」(現、「北海道庁」)は、1873年にアイヌモシリの三角測量を開始しました。
 日本海軍が海南島周辺の水路図を作成し始めたのがいつなのかはは、はっきりしていませんが、1893年10月11日付け日本海軍で水路部は「支那海 東京海湾 海南島」を発行しています。この水路図の欄外には、
    「此図ハ1881年出版同90年10月大改正ノ英海軍海図第2062号ニ據リ其ノ
   東半部ノ覆版ナリ」
と書かれています。その7年後、1900年7月31日付けて、日本海軍水路部は「支那海南島南岸諸港湾」と題する水路図を発行していますが、右上欄外には、
    「此図ハ1866年5月出版同94年10月大改正ノ英海軍海図第1019号ニ因
   ル」
と書かれています。
 この時点で、日本海軍は、独自に測量して海南島周辺の水路図を作成しえていなかったようです。イギリス海軍の海図に基づく「支那海 東京海湾 海南島」と「支那海南島南岸諸港湾」の地名は、ほとんどが、原図のイングランド語の地名をカタカナで表記したものですが、楡林は、漢字で書かれています(「支那海南島南岸諸港湾」では、三亜は、「サマ」と書かれています)。イギリス海軍は、地名のいくつかは現地音で確定していたようです。
 楡林の西の岬は、「支那海 東京海湾 海南島」でも「支那海南島南岸諸港湾」でも、「サロモン岬」と書かれています。
                                  佐藤正人
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