三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

李基允(イギユン)さんと裵相度(ペサンド)さんを追悼する集会

2010年11月20日 | 集会
16年前のきょう(1994年11月20日)、1926年に虐殺された李基允さんと裵相度さんを追悼する碑を除幕しました。それから、毎年晩秋に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、お二人を追悼する集会を開いてきました。
 ことしは17回目です。
 みなさんの参加をお待ちしています。

■第17回 李基允さんと裵相度さんを追悼する集会
  と き:12月4日(土)  午後2時から
  ところ:追悼碑前(木本トンネル熊野側入り口の高台)
      JR熊野市駅から尾鷲方面に歩いて10分ほどです。
  集会後、虐殺現場、飯場跡、お二人の「墓石」のある極楽寺などを訪ねます。
  
 「木本事件」、「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」、「大逆事件」などのパネル展示
   と き:12月4日~5日
         4日は、午後0時から午後6時まで
         5日は、午前9時から午後4時30分まで
   ところ:熊野市文化交流センター(熊野市立図書館)の多目的室
           熊野市駅のすぐ近くです。

  12月4日夜7時から、宿所で参加者の交流会を開きます。

宿所:湯元山荘 湯ノ口温泉(熊野市紀和町湯ノ口 電話0597-97-1126)
     宿泊費は、夕食・朝食費をふくめて、5000円以内です。
     宿泊を希望される方は11月末までに会に連絡してください。
     三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立
    する会    http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
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四日市調査報告

2010年11月19日 | 紀州鉱山
 2010年6月5日に、石原産業四日市工場で働かされていた朝鮮人について知るために、石原産業四日市工場を訪問しました。
 四日市工場で働かされていた朝鮮人の宿所があった場所の近くに、1959年の伊勢湾台風で亡くなった29人の従業員の追悼碑と四日市工場で死んだ連合軍捕虜の碑が建てられていました。連合軍捕虜の碑の横には、なぜか、「占領軍兵士の墓碑である」という説明板がありました。
 1944年8月に石原産業四日市工場敷地内に大阪俘虜収容所第17分所が開設され、イギリス軍とオランダ軍とアメリカ合州国軍の「捕虜」600人が連行され、強制労働させられていました。
 「占領軍兵士の墓碑」がいつ、何のために建てられたのか、なぜ、「連合軍捕虜」が「占領軍兵士」とされたのかなどを、木村博総務部長に尋ねましたが、「なんにも解りません」との返答でした。「当時、朝鮮人が働いていたことについても詳しく解らないし、社史などの資料も一切なく、当時を詳しく知る人はもう退職しているので、なにも解らない」というのが木村総務部長の返事でした。

 その後、石原産業四日市工場の近くにある栄信寺と西願寺を訪問して、1940年から1945年当時の石原産業のことや、そこで働いていた朝鮮人のことを尋ねました。
 わたしたちは、あらかじめ、石原産業四日市工場の近くにある、法柳寺、栄信寺、法泉寺、西願寺、萬性寺に、調査への協力を願いしていました。
 西願寺の芳山和浩住職は、19世紀後半以後の過去帳をすべて見て、「創氏・改名」させられていた人のいたことを考え朝鮮人と思われる名前も探し、朝鮮人の名前を書きぬいておいてくれました。そこには、1940年から1945年までの間には、朝鮮人の名前はありませんでした。

 翌日(6月6日)四日市に在住の朝鮮人の女性に会って話を聞かせていただきました。
このかたは、
     「小学校5年生とき滋賀県からここに来た。後になってから200人ほどの捕虜
    が働かされていたことを聞いたが、それ以外に、あまり石原産業のことについて
    は知らない。母(97歳)なら知っているだろうが今は施設に入所しているので話
    を聞くことはできない」
ということで、石原産業のことは、ほとんど聞けませんでした。ただ、この女性の知人で詳しく知っていると思う人がいるので、後日、その人と会うときは紹介すると言ってくれました。
 その後、今は鈴鹿に在住しており、当時は、夫婦で紀州鉱山で働いていたという人を自宅に訪ねて話を聞かせてくださいと頼んだのですが、会ってくれませんでした。

 今回は、石原産業四日市工場で働かされていた朝鮮人のことをあまり知ることができませんでした。今後、さらに調査を進めていきたいと考えています。
                                     竹本 昇
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不動産取得税、固定資産税の支払いをめぐる交渉経過

2010年11月18日 | 紀州鉱山
■石原産業の紀州鉱山に連行されて亡くなった英国兵捕虜と朝鮮人
 石原産業は、1934年7月に熊野市紀和町で銅を採掘するため鉱山を開設しました。
 戦時下の労働力不足を補うために1940年から1945年の間、1000人以上の朝鮮人が、紀州鉱山に強制連行され過酷な労働に使役させられ、多くの朝鮮人が亡くなりました。私たちの会が調査した結果、現在35人の死亡者が確認しています。
 1944年に石原産業は、英国兵捕虜300人を紀州鉱山に連行し使役しました。そのうち16人が亡くなりました。
 亡くなった英国兵捕虜に対して、石原産業は1946年に「墓」を作り、熊野市(当時紀和町)は1965年に、その施設を「外人墓地」として文化財指定しました。1987年には熊野市は、石原産業から墓地の土地を譲り受け、2005年には、「外人墓地」から「英国人墓地」に名称を変更して施設の管理を行っています。

■英国兵捕虜と強制連行した朝鮮人に対する対応の違いは民族差別
 他の自治体では、その歴史的事情に基づき、「追悼の要請」に応えて、大いに公共性を認め、強制連行、強制労働で亡くなった人々の追悼に、行政の責任において協力的に関わっています。
 しかし、熊野市は、亡くなった朝鮮人に対して、強制連行の事実も強制労働の実態も死亡原因も死亡者の名前も明らかにしていません。
 私たちは、2008年6月27日付で熊野市に、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立する用地の提供を求めます」という要望書を提出しました。
 これに対して、熊野市は、2008年7月18日に「追悼碑を建立する用地としては提供はいたしません」と回答してきました。
 そこには、土地を提供しない理由は、一言も述べられていません。
 また、熊野市が運営している鉱山資料館の土地所有者は、石原産業株式会社です。資料館の土地に追悼碑を建立することについて石原産業株式会社自身は、「熊野市さえ了承すれば承諾する」と言っているにも関わらず、この点についても一切の説明がないまま拒否してきました。
 平和の構築のために英国兵捕虜の追悼は大切にされなければなりません。しかし、この英国兵捕虜に対する対応に比べて、亡くなった朝鮮人の追悼碑建立に対する熊野市の対応は、明らかな民族差別です。

■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立する土地を購入
 韓国で存命されている紀州鉱山に強制連行された人たちは高齢です。
 熊野市に追悼碑建立用の土地を求めていくことには時間がかかることが予測されたため、私たちの会では、この方々の存命中に追悼碑を建立することを決め、私たちで土地を確保して紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立することにしました。
 わたしたちは、追悼碑を建立するため、熊野市紀和町板屋82-7の、地目は宅地、地積は214.24㎡の土地を購入しました。  
 その後、追悼碑を設置し、2010年3月28日に、韓国と日本国内から約100人が参加して、追悼碑の除幕集会を開催しました。

■三重県知事に対する行政不服審査請求     
 私たちが取得したこの土地に対して、三重県紀州県税事務所長は、2009年11月20日付で、不動産所得税の納めるようにとの通知書を郵送してきました。
 そこで、私たちは2010年11月11日、「強制連行され強制労働をさせられて亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する土地は、公共性を有するため非課税とされたい」と申し出ました。
 その結果、12月3日、三重県紀州県税事務所長から、不動産取得税は再調査のため減免するとの通知を受けました。
 ところが2010年6月1日付で、三重県紀州県税事務所長は、不動産所得税の納税通知書を郵送してきました。そこで私たちは、三重県知事に、行政不服審査法による不動産税賦課の取り消しを求めるための審査請求を行いました。

■熊野市長に対する異議申立
 熊野市長からは、2010年5月6日付で固定資産税の納税通知を受けたので、私たちは2010年5月24日付で、熊野市長に対して「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立した土地であり、公共性があるため」という理由で減免を申請しました。
 ところが、その減免申請に対して、熊野市長は、2010年6月2日付で、「申請のあった固定資産に、公共性が認められないため」として、減免を認めませんでした。
 私たちは2010年7月2日付で、熊野市長に、固定資産税の減免不承認処分及び固定資産税賦課の取り消しを求めるために行政不服審査法による異議申立てを行いました。

■三重県知事と熊野市長の不当な棄却
 私たちの請求と申立てに対して、三重県知事は2010年10月13日付の書面で、「公共性を有するからといって、直ちに非課税又は減免にはならない」、「公平性を欠くものではない」、「朝鮮人の追悼碑の土地を減免とする義務を負っていない」として棄却してきました。 また、熊野市は、2010年9月22日付の書面で、「公共性がない」として棄却してきました。

■裁判の場で民族差別を明らかにする
 朝鮮人に対する強制連行、強制労働における歴史的責任を一切自覚できず、行政施策から朝鮮人を排除する三重県知事の意識と、英国兵捕虜に対する対応と異なり朝鮮人に対して民族差別を行う熊野市長の意識は、「脱亜入欧」という政治スローガンのもとに欧米に隷属し朝鮮を侵略し植民地支配したときの民族排外そのものです。
 私たちは、今後、三重県知事と熊野市長に対して、民族差別の撤廃を求めて裁判を起こす予定です。
 皆さんのご理解とご支援をお願いします。
                              竹本 昇
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三重テレビへの取材協力と放映

2010年11月17日 | 紀州鉱山
 7月下旬に三重テレビから、「今年は韓国併合から100年になるので、特別番組として、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の会員の皆さんが、「なぜこの活動を行っているのですか?」ということをテーマにした特別番組を企画し放映したいので、インタビューをさせてほしい」という取材の協力を依頼されました。
 そこで私たちの会から地元のメンバーと三重に在住しているメンバーの5人でインタビューを受けることになりました。

 インタビュー本番で「なぜこの活動を行っているのですか?」という問いに対して、各人は、
     「強制連行や軍性奴隷の犠牲者は自分の問題のことのように思う。犠牲者の
    声が聞こえてくる気がするから」、
     「元社会科の教師として真実の歴史を知る責任があり、知ることは知らない昔
    には戻れないのですね」、
     「戦争といえば軍に召集されることと思っていたが、そうではなく身近に強制連
    行ということを知ることで戦争というものが分かったから」、
     「教科書で韓国併合ということを習ったが、教科書では教えられなかった身近
    なこととして紀州鉱山における強制連行があったということを知ったから」
と、それぞれ、自分の想いを語りました。
 しかし、4分という短い放映時間でもあったためメンバーのこの想いを語った部分は、放映されませんでした。

 また、私のインタビューについてですが、活動に関わった最初のきっかけが市役所在職中のときの指紋押捺拒否闘争との出会いであったので、そのことを質問され、それに答えたのですが、その部分だけが放映され、私が放映してほしいと思っていた「植民地支配の実態を知ること。それが犯罪であること。略奪したうえで日本という国をつくり、その中で私たちの生を繋いでいるから「韓国併合100年」は今の問題であること。そのことを知り自覚して、人間らしく生きたいから」という部分は放映されませんでした。
 この部分は、追悼碑の前でインタビューを受ける前に、私の方から申し出て三重テレビの車の中でリハーサルを行った部分でした。
 せっかく、三重テレビが韓国強制併合100年の年、特別番組として企画をしてくれただけに、8月10日の放映に私としては物足りなさを感じています。
                                     竹本 昇
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李基允氏と相度氏の「墓石」が極楽寺にもどりました

2010年11月16日 | 木本事件
 1995年12月5日から大阪人権博物館で、「木本事件」の解説とともに展示されていたおふたりの「墓石」が、2010年4月14日、極楽寺にもどりました。

■朝鮮人差別が刻まれた「墓石」
 おふたりの「墓石」は、1926年5月、木本トンネル工事の現場責任者であったと思われる田中孫右衛門によって、つくられました。
 李基允氏の「墓石」の正面には「春雪信士」、相度氏の「墓石」の正面には「秋相信士」、それぞれの右側に「鮮人 春山清吉」「鮮人 秋山正吉」と、日本式の名前と朝鮮人差別を示すことばが刻まれています。
 ふたつの「墓石」は、長いあいだ極楽寺の階段状になった無縁墓地に離れ離れに置かれていました。
 極楽寺の近くに住んでいて、1926年1月、事件を目撃した松島繁治さんが、数千基の墓石がある無縁墓地のなかに置かれてあったおふたりの「墓石」の位置を覚えていて、わたしたちに教えてくれました。松島繁治さんによれば、「墓石」は、トンネルから掘り出した岩石でつくったそうです。

■敬洪氏が63年ぶりに熊野市に来て
 お二人の「墓石」は、1989年4月24日に、相度氏の子、敬洪氏が、事件後、臨月のオモニや姉妹と木本を離れたあと、はじめて熊野に来たとき、無縁墓地から降ろし、地上に並べて置きました。
 敬洪氏は、相度氏の二男で、「木本事件」当事4歳でした。木本町の西郷川の河川敷にあった飯場で、アボヂやオモニ、姉や妹たちと住んでいて、「事件」を目撃し、アボヂの遺体解剖にも立ち会ったことを記憶していました。オモニが臨月だったこと、一男が幼いときに亡くなっていたこと、で、じぶんが立ち会ったのではないかと思うと話していました。

■歴史的な証拠である「墓石」
 わたしたちは、ふたりの「墓石」は、遺族の想いがこめられたほんとうの墓石ではなく、朝鮮人差別が刻まれた歴史的な証拠であり、それゆえ、より多くの人に見て考えてもらいたい、「墓石」の風化をとめたいと考えました。
 1994年11月20日、おふたりの追悼碑除幕式に出席した相度氏の孫、哲庸氏に、「墓石」の今後について相談しました。哲庸氏の帰国後、敬洪氏から、わたしたちに任せる、という電話をいただきました。

■大阪人権博物館で常設展示
 1995年10月1日、極楽寺で「墓石」を大阪人権博物館に渡し、12月5日から、大阪人権博物館で展示されました。極楽寺には、大阪人権博物館でつくった「墓石」のレプリカを置きました。

■ふたたび極楽寺に
 2007年11月23日、李基允氏と相度氏の第14回目の追悼集会のさい、おふたりの「墓石」を訪ねてきた小学生から、なぜもとの「墓石」がここにないのか、と尋ねられたという極楽寺の足立住職から、「墓石」をもどせないか、という相談がありました。
 2008年11月22日、第15回追悼集会のさい、極楽寺で、足立住職、大阪人権博物館、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会の3者で相談してもどすことになり、2010年4月14日、大阪人権博物館側から極楽寺に渡されました。

 敬洪氏は、持病の糖尿病が悪化し、1995年6月14日に、亡くなりました。李基允氏のご遺族とは、わたしたちは出会うことができていません。
                                  キムチョンミ
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『会報』54号・9号合併号

2010年11月15日 | 『会報』
 きょう(2010年11月15日)、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』54号と紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』9号の合併号を発行しました。
 内容は、つぎのとおりです。
             

 「追悼碑や「石」たち」 嶋田実
 「闘いの始まりの宣言」 徐文平
 「2010年 韓国で」 佐藤正人
 「韓国調査報告2010年4月・10月」 斉藤日出治
 「李基允氏と相度氏の“墓石”が極楽寺にもどりました」 キム チョンミ
 「四日市調査報告」 竹本昇
 「大畑高千穂さんの証言」 キム チョンミ 
 「8月21日「もどらなかったアボヂ」集会報告」 竹本昇
 「海南島近現代史研究会第4回総会報告」 斉藤日出治
 「フィリピンにおける石原産業」 佐藤正人
 「2010年初夏 海南島と三灶島で」 佐藤正人
 「海南島のドキュメンタリー 大阪人権博物館で連続上映会」 斉藤日出治
 「三重テレビへの取材協力と放映」 竹本昇
 「16回目の「相生平和記念碑」まえでの追悼集会に参加して」 斉藤日出治
 「不動産取得税、固定資産税の支払いをめぐる交渉経過」 竹本昇
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 建立基金報告

 新聞記事
    「朝鮮人差別の墓石戻る 極楽寺「人権教育の教材に」」(『毎日新聞』熊
       野版、2010年4月15日)。
    「木本事件と差別伝える資料 朝鮮人の墓石、極楽寺に戻る 大阪の人
       権施設から再移設」(『紀南新聞』2010年4月16日)。
    「話し合い設け誠実に回答を 市文化財・英国人墓地問題 市民団体が
       市教委に要望」(『紀南新聞』2010年4月20日)。
    「熊野・紀州鉱山/戦跡は語る 65年後の記憶 朝鮮人ら強制労働従事」
       (『中日新聞』三重版、2010年8月20日)。
    「父は日本軍のために働き死んだ 韓国人遺族「過去に目を」」(『朝日新
       聞』関西版、2010年8月22日)。

 B5版28頁。 定価 200円(送料80円)。
 連絡先 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立
    する会
            大阪府大東市中垣内3 大阪産業大学 斉藤日出治方
       紀州鉱山の真実を明らかにする会
            和歌山県海南市日方1168 キム チョンミ方
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「サルモン岬」 9

2010年11月14日 | 海南島史研究
 3年前に、「第32震洋隊」の隊員だった関口俊輔さんに、「第32震洋隊」の基地建設工事を誰がやったのかを聞いたことがあります。そのとき、関口さんは、つぎのように話しました(くわしくは、このブログの2007年12月17日の「「震洋」隊員の証言」を見てください)。

    海南島に行ったのは、第32震洋隊、第33震洋隊、第103震洋隊の3隊だっ
   た。
    この3隊全員が、1945年1月29日に、聖川丸(キヨカワマル)という大き
   な船にのって佐世保を出た。聖川丸は特設水上機母艦だった。「震洋」約200隻
   もすべて積み込んでいた。
    佐世保を出て……海南島の楡林港に着いた。2月5日だった。
    日本を出るときも途中も、どこに行くかまったく知らされなかった。着いてはじめ
   て海南島にきたことを知った。
    そのときにはまだ震洋格納庫の宿所もかったので、楡林港安由の石原桟橋近く
   にあった検疫所跡に入った。石原桟橋というのは、石原産業の田独鉱山の鉄鉱
   石を積み出す桟橋だ。
    4月上旬まで、楡林湾でほとんど毎晩、震洋の練習をした。震洋はベニヤ板でで
   きているので、サンゴ礁にひっかかるとすぐ壊れるので苦労した。
    4日、13日、16日の3回に分けて、陵水の新村基地に移った。通信兵や整備兵
   や衛生兵は陸路で移動したが、搭乗員はすべて震洋で移動した。
    新村に行ってみると、格納庫も宿所もできていた。誰がつくったかわからなかっ
   た。
    「秘密基地なので、つくったクーリはみんな殺されて埋められたようだ」、という噂
   を当時聞いたことある。

 わたしたちは、2000年春以後、5回、新村を訪ねました。
 2002年春には、「海南警備府第32部隊軍用施設略図」をもって行き、趙向盈さん(1918年生)に「震洋」基地跡に案内してもらいました。趙向盈さんは、その基地建設工事のころ、新村の「治安維持会」の副会長兼秘書長でした。 
 趙向盈さんは、新村の特攻艇基地建設工事をさせられたのは、香港、台湾、朝鮮、大陸から連れてこられた人たちで、田独鉱山や石碌鉱山で働かされていた人たちもいた、と話しました。
 中国人民政治協商会議海南省陵水黎族自治県文史学習委員会編『日軍侵陵暴行実録』(『陵水文史』7、1995年2月)に、趙向盈口述・許礼芳整理「新村港日軍据点機構設置状況」と趙生口述・王人造整理「日軍侵陵的軍事要地新村南湾巡艇坑道」が掲載されています。
                                佐藤正人
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「サルモン岬」 8

2010年11月13日 | 海南島史研究
 羅煥高さんは、2009年6月に、
     「日本軍は鹿回頭村の南辺嶺にレーダーを設置した。日本軍は、三亜海岸か
    ら南辺嶺までの道路を村人につくらせた。わたしの父親も母親も日本軍に道路
    工事をさせられた。日本軍は、毎日、6~7毛をはらった。軍票だった」
とも話しました。
 南辺嶺は、「第33震洋隊」の基地がつくられた場所です。
 日本敗戦後、「第33震洋隊」の施設を、中国海軍総司令部粤越区特派員駐海南島弁事處副主任である県顕邦海軍中校が、「第103震洋隊」の施設を接収したのと同じ1945年11月30日に接収しました。防衛研究所図書館にある日本海軍の用紙に書かれた「海南警備府第三十三部隊」の「引渡目録」に添付されている地図には、南辺嶺の北西麓に、15本のトンネル、兵舎、倉庫、神社、燃料庫などの位置が示されています。関係文書には、その位置は、「三亜岬」と書かれています。
 「引渡目録」添付地図にある南辺嶺という地名は、中華民国の1936年の測図に基づいて日本参謀本部陸地測量部が1940年12月に発行した地図「三亜港」(5万分の1)にも記されています。
 「第33震洋隊」に配備された「震洋」は1人乗り、「第103震洋隊」に配備された「震洋」は二人乗りで、いずれも、ベニヤ板製のモーターボートでした。
 「第33震洋隊」の基地と「第103震洋隊」の基地の位置は接近しており、「震洋」格納トンネル開削工事をふくむ建設工事には、西松組が関係していたと思われます。
 「第32震洋隊」の基地は、陵水県(現、陵水黎族自治県)の新村湾入り口につくられていました。
 「震洋」格納トンネルを含む「第32震洋隊」基地の諸施設を、中国海軍総司令部粤越区特派員駐海南島弁事處副主任である県顕邦海軍中校が、1945年11月26日に接収しました。
 防衛研究所図書館にある「海南警備府第三十二部隊」の「引渡目録」に添付されている「海南警備府第三十二部隊軍用施設略図」には、新村港入り口の石頭山(183メートル)の麓に、12本のトンネル、兵舎、倉庫、桟橋、レール、燃料庫などが示されています。
 12本のトンネルのうち、「震洋」格納用トンネルは9本(第一坑、第二坑、第四坑、第六坑、第八坑~第十二坑)であり、第三坑は食料庫、第五坑は燃料庫、第七坑は火薬庫であり、引き渡された「震洋艇」は48隻(坑内39隻、坑外9隻)であると、「引渡目録」には書かれています。
 「第32震洋隊」の基地建設工事が具体的にどのようにおこなわれたのかは、はっきりしません。
                                 佐藤正人
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「サルモン岬」 7

2010年11月12日 | 海南島史研究
 海南島の「第103震洋隊」基地のトンネル(「震洋」格納トンネル、糧食格納トンネル、弾薬格納トンネル)の開削工事を請け負ったのは、西松組だったようです。
 『第103震洋特別攻撃隊』中の「海南島回顧」と題する文章のなかに、岡本拓氏は、つぎのように書いています。
     「サルモン岬の南端では、鉄鉱石採掘のため海南島に来ていた日鉄や西松組
    の人達が多くの苦力を使つて我々の艇格納用のトンネルの掘削に突貫作業を
    続けてくれており、1か月程かかつて、4隻格納のトンネル6本が完成した。
      掘削工事の途中アンチモニーの鉱脈が出る等、堅い鉄山開発に手馴れた日
    鉄や西松組の人達も大変な苦労のようであつた」。
 また、同書の「第3艇隊の思い出」のなかで、宅野成八氏は、
     「益田部隊〔第103震洋隊〕基地はサルモン岬の先端に有り、堅い岩盤か
    らなる地質は艇の掩体壕の建設工事の遅延の原因となった程である。そのため
    基地移転後も隧道工事が続きコンプレッサーと鑿岩機の音に明け暮れた。偶
    然境兵曹の中学時代のクラスメートで岡本という人が工事担当西松組の技術者
    として派遣されて来ており、工事の進捗状況を聞いたり……」
と述べています。
 岡本拓氏は、「鉄鉱石採掘のため海南島に来ていた日鉄や西松組」と言っていますが、西松組は石碌鉱山の施設建設や石碌から鉄鉱石を日本に運び出すだめの八所までの鉄道建設をおこなっていましたが、「日鉄」と略称される企業が海南島で鉄鉱石採掘をおこなっていたという記録はありません。
 「第103震洋隊」の基地建設のために西松組が働かせていた「多くの苦力」が、どんな人たちだったかは、はっきりしません。
 「第103震洋隊」と「第33震洋隊」の基地は、人家のない場所につくられました。
 わたしたちは、「第103震洋隊」の基地跡に2度行きましたが、基地建設工事について知っている住民に出会うことはかんたんではありませんでした。
 2009年6月に、わたしたちは、「第103震洋隊」の基地跡から2キロほど離れた三亜市鹿回頭村(現、兄弟村)で、当時のことを知っている羅煥高さん(1938年生)と出会うことができました。
 羅煥高さんは、
    「日本軍は広州からたくさんの人をつれてきた。村の水尾嶺の石場から石を
   切り出させ、道路工事につかわせた。わたしは、日本兵が広州人をなぐってい
   るのをなんどもも見た。餓死した広州人も多かった。たぶん、1日か2日おき
   に、2人くらいの広州人が死んだと思う」
と話しました。西松組が働かせていた「多くの苦力」のなかには、広州から連行された人たちが、いたかも知れません。
                                 佐藤正人
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「サルモン岬」 6

2010年11月11日 | 海南島史研究
 『第103震洋特別攻撃隊』には、「第103震洋隊」の隊員であった13人の「回顧録」などが掲載されています。
 日本にもどった旧日本軍の将兵たちは、所属していた部隊ごとに「戦友会」をつくりましたが、「第103震洋隊」の隊員たちも、1966年に「サルモン岬会」という名の会をつくったようです。
 「第103震洋隊」の186人の隊員すべてが、「サルモン岬」の「サル」を日本語に書き換えていたかどうかは不明ですが、『第103震洋特別攻撃隊』では、筆者のひとり岡本拓氏は、「サルモン岬(猿門岬)」の南端に「第103震洋隊」の基地があったと書いています。
 日本敗戦後、海南島に侵入していた日本軍の全施設・兵器を、中華民国軍が接収しました。
 「第103震洋隊」の施設は、1945年11月30日に、中国海軍総司令部粤越区特派員駐海南島弁事處副主任である県顕邦海軍中校が接収しました。防衛研究所図書館にある関係文書には、その位置は、「三亜岬」と書かれています。
 このとき、中国軍が接収したのは、「艇格納隧道 6、弾火薬格納隧道 1、糧食格納隧道 2」、二人乗り「震洋」の船体24隻、エンジン24個、「14米特型運貨船」1隻などでした。
 中国軍が接収した「第32震洋隊」の「震洋」格納トンネルは9本、「第33震洋隊」の「震洋」格納トンネルは15本、「第103震洋隊」の「震洋」格納トンネルは6本でした。これらのトンネルおよび糧食や弾薬を格納するトンネルの開削は、1944年秋から始められていました。
                                  佐藤正人
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