三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「台湾報国隊」について 2

2010年11月02日 | 台湾
 朝鮮総督府法務局行刑課内にあった治刑協会が発行していた月刊誌『治刑』(1944年3月号)に、看守長貴島貞四の「我等は挺身する」と題する文書が掲載されています。
 そこに貴島は、
   「此の頃の気候は海南島でもつともよい季節で、随て作業能率も大いに増進して
  ゐる」、
   「朝鮮報国隊は各方面とも、予てからその作業振りに対して頗る好評を受けつゝあ
  つたが……」、
   「○○には台湾報国隊も進出し……」
と書いています。
 この伏字になっている「○○」が具体的にどこなのかははっきりしませんが、「台湾報国隊」に入れられた人の一部は、1944年1月に、海南島東南部の陵水で働かされていました。
 朝鮮で「第7次南方派遣朝鮮報国隊」が編成されたのは1943年末でした。このとき、海南島に「朝鮮報国隊」の人たちを連行した刑務職員は41人で、その総責任者は、朝鮮総督府大田刑務所の看守長であった衣笠一氏(1913年生)でした。
 衣笠一氏は、2001年に書いた「(自分史) わが足跡 上」の「陵水時代」の章に、1944年1月に「第7次南方派遣朝鮮報国隊」が陵水飛行場建設現場にトラックで運ばれたとき、そきには、すでに、「朝鮮報国隊」の人たちが450人、「台湾報国隊」の人たちが200人働かされていた、と書いています。

                                     佐藤正人
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