2月3日朝、千鳳基さんに電話し、自宅で話を聞かせていただくことにしました。
安東市内から、洛東河右岸沿いの道をさかのぼってから山道に入り、りんご畑のなかの農道をしばらく行った丘の中腹で家を探していると、千鳳基さんが通りまで出てきてくれました。
千鳳基さんの家は、りんごの樹に囲まれ、牛小屋にはよく手入れされた赤毛の牛が3頭いました。
千炳台さんが遺骨となって故郷にもどってきたとき、千鳳基さんは小学校一年生だったそうです。
千鳳基さんの家をでて、来たときと反対の方向に進み、山道をぬけ、低い峠を越えてすこし行くと、千炳台さんの墓のある丘にでました。
千炳台さんは、1944年5月7日に紀州鉱山に強制連行され、3か月もたっていない1944年8月1日に亡くなっています。
その死因を確かめるには、埋火葬許認可書を閲覧することが必要です。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年11月16日の第4回紀州鉱山「現地調査」のとき、紀和町の助役と教育長に口頭で、千炳台さんの埋火葬許認可書の閲覧を求めました。
さらに、2003年7月21日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町役場で、千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求めました。紀和町役場がそれを拒否したので、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2003年11月22日付で、紀和町に、公文書公開条例にもとづき千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求める文書をだしました。
紀和町が、その閲覧を認めないまま、2005年11月に紀和町は熊野市に併合されました。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2006年1月16日に、千炳台さんを含む紀州鉱山で亡くなった朝鮮人と考えられる39人について、熊野市に、埋火葬許認可書の閲覧を求める文書をだし、その後何度も埋火葬許認可書の閲覧を求めてきました。しかし、熊野市は、それらの文書はないといって、閲覧を拒否し続けています。
1998年9月20日の『中日新聞』朝刊(牟婁版)に、「戦時中の紀州鉱山で“逃亡”の男性 紀和町 韓国の戸籍で“死亡”の記述 市民団体の調査で判明」という見出しで、つぎのような記事が掲載されています。
「第二次世界大戦中、多くの朝鮮人労働者が働いていたとされる紀和町の紀州鉱山。
その隠れた歴史を調べている市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が鉱山で働いていた朝鮮人の
名簿をもとに「逃亡した」とされる男性を訪ねて韓国まで会いに行ったところ、韓国に保管されていた戸籍では
紀和町で死亡したと記録されていた。
同会は……これまでの調査で、日本政府が韓国政府に提出した名簿「朝鮮人労働者に関する調査のこと」を
入手した。
名簿には紀州鉱山で働いた朝鮮人労働者の氏名や出身地、生年月日などが記され、終戦までの四年間で
延べ八百七十五人が働いていたことが判明した。
また、「逃亡」「帰国」などと鉱山を出た理由も記述されており、生存者を探して、当時の状況を聞き取り調査する
ことにした。
八月下旬、金代表ら五人が韓国慶尚北道安東郡を訪れた。
名簿では一九四四年五月から約三か月間、鉱山で働いたが、逃亡したとされる男性を訪ねた。
ところが、本籍地の役所で戸籍を見せてもらったところ、上川村大河内(現紀和町)で二十七歳の時に死亡届を
受理していた。
戸籍によると、死亡したのは八月一日で、死亡届が出されたのは翌日の二日。
名簿では「八月二日に逃亡した」とされていた。
1917年12月6日生れの千炳台さんは、1944年5月7日に紀州鉱山に強制連行されたとき、26歳5か月で、亡くなったとき26歳8か月になっていませんでした。
日本に強制連行されるまえの千炳台さんを知っている千ヨンギさんも千鳳基さんも、千炳台さんは、背の高い元気な人だったと言っています。
紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている「紀州鉱業者物故者諸精霊」と書かれた箱に『紀州鉱業所物故者霊名』と題された書き物が入れられています。それには、紀州鉱山で死んだ人たち423人の名が記されており、そのうち朝鮮人と推定・断定できる人は、12人です。そのなかに「子炳台」と書かれた人がいますが、千炳台さんのことだと思われます。
「子炳台」という名がどうして『紀州鉱業所物故者霊名』に書かれているのか、その理由ははっきりしていません。
また、石原産業株式会社が1955年につくった『従業物故者 忌辰録』(1955年10月10日現在調)という「会社創業以来の物故者」の名簿があり、1269人の名前と死亡年月日が記載されています。その66頁に、千炳台さんの名があり、1944年8月2日に「病没」したと書かれています。韓国にある戸籍簿では、千炳台さんが亡くなった日は8月1日であり、8月2日は死亡届が出された日となっています。
千炳台さんについて、石原産業は、「紀州鉱山1946年報告書」では8月2日に「逃亡」したことにし、『従業物故者 忌辰録』では同じ8月2日に「病没」したとしています。
佐藤正人
安東市内から、洛東河右岸沿いの道をさかのぼってから山道に入り、りんご畑のなかの農道をしばらく行った丘の中腹で家を探していると、千鳳基さんが通りまで出てきてくれました。
千鳳基さんの家は、りんごの樹に囲まれ、牛小屋にはよく手入れされた赤毛の牛が3頭いました。
千炳台さんが遺骨となって故郷にもどってきたとき、千鳳基さんは小学校一年生だったそうです。
千鳳基さんの家をでて、来たときと反対の方向に進み、山道をぬけ、低い峠を越えてすこし行くと、千炳台さんの墓のある丘にでました。
千炳台さんは、1944年5月7日に紀州鉱山に強制連行され、3か月もたっていない1944年8月1日に亡くなっています。
その死因を確かめるには、埋火葬許認可書を閲覧することが必要です。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年11月16日の第4回紀州鉱山「現地調査」のとき、紀和町の助役と教育長に口頭で、千炳台さんの埋火葬許認可書の閲覧を求めました。
さらに、2003年7月21日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町役場で、千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求めました。紀和町役場がそれを拒否したので、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2003年11月22日付で、紀和町に、公文書公開条例にもとづき千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求める文書をだしました。
紀和町が、その閲覧を認めないまま、2005年11月に紀和町は熊野市に併合されました。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2006年1月16日に、千炳台さんを含む紀州鉱山で亡くなった朝鮮人と考えられる39人について、熊野市に、埋火葬許認可書の閲覧を求める文書をだし、その後何度も埋火葬許認可書の閲覧を求めてきました。しかし、熊野市は、それらの文書はないといって、閲覧を拒否し続けています。
1998年9月20日の『中日新聞』朝刊(牟婁版)に、「戦時中の紀州鉱山で“逃亡”の男性 紀和町 韓国の戸籍で“死亡”の記述 市民団体の調査で判明」という見出しで、つぎのような記事が掲載されています。
「第二次世界大戦中、多くの朝鮮人労働者が働いていたとされる紀和町の紀州鉱山。
その隠れた歴史を調べている市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が鉱山で働いていた朝鮮人の
名簿をもとに「逃亡した」とされる男性を訪ねて韓国まで会いに行ったところ、韓国に保管されていた戸籍では
紀和町で死亡したと記録されていた。
同会は……これまでの調査で、日本政府が韓国政府に提出した名簿「朝鮮人労働者に関する調査のこと」を
入手した。
名簿には紀州鉱山で働いた朝鮮人労働者の氏名や出身地、生年月日などが記され、終戦までの四年間で
延べ八百七十五人が働いていたことが判明した。
また、「逃亡」「帰国」などと鉱山を出た理由も記述されており、生存者を探して、当時の状況を聞き取り調査する
ことにした。
八月下旬、金代表ら五人が韓国慶尚北道安東郡を訪れた。
名簿では一九四四年五月から約三か月間、鉱山で働いたが、逃亡したとされる男性を訪ねた。
ところが、本籍地の役所で戸籍を見せてもらったところ、上川村大河内(現紀和町)で二十七歳の時に死亡届を
受理していた。
戸籍によると、死亡したのは八月一日で、死亡届が出されたのは翌日の二日。
名簿では「八月二日に逃亡した」とされていた。
1917年12月6日生れの千炳台さんは、1944年5月7日に紀州鉱山に強制連行されたとき、26歳5か月で、亡くなったとき26歳8か月になっていませんでした。
日本に強制連行されるまえの千炳台さんを知っている千ヨンギさんも千鳳基さんも、千炳台さんは、背の高い元気な人だったと言っています。
紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている「紀州鉱業者物故者諸精霊」と書かれた箱に『紀州鉱業所物故者霊名』と題された書き物が入れられています。それには、紀州鉱山で死んだ人たち423人の名が記されており、そのうち朝鮮人と推定・断定できる人は、12人です。そのなかに「子炳台」と書かれた人がいますが、千炳台さんのことだと思われます。
「子炳台」という名がどうして『紀州鉱業所物故者霊名』に書かれているのか、その理由ははっきりしていません。
また、石原産業株式会社が1955年につくった『従業物故者 忌辰録』(1955年10月10日現在調)という「会社創業以来の物故者」の名簿があり、1269人の名前と死亡年月日が記載されています。その66頁に、千炳台さんの名があり、1944年8月2日に「病没」したと書かれています。韓国にある戸籍簿では、千炳台さんが亡くなった日は8月1日であり、8月2日は死亡届が出された日となっています。
千炳台さんについて、石原産業は、「紀州鉱山1946年報告書」では8月2日に「逃亡」したことにし、『従業物故者 忌辰録』では同じ8月2日に「病没」したとしています。
佐藤正人
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