三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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東アジアにおける一九一〇年 1

2010年02月20日 | 個人史・地域史・世界史
 季刊誌『飛礫』65号(2010年冬号。2010年2月1日、つぶて書房発行)に掲載されたキム チョンミ「東アジアにおける一九一〇年」を6回に分けて連載します。
           ■アイヌモシリ植民地化開始後一四〇年
           ■国民国家(「臣民国家」)日本の形成と侵略犯罪
           ■甲午農民軍・乙未義兵・義和団・活貧党の時代
           ■抗日義兵の時代
           ■一九一〇年
           ■二〇一〇年

■アイヌモシリ植民地化開始後一四〇年
 日本政府は、一八六九年八月一五日に太政官の部局として「開拓使」を設置し、八月二九日にアイヌモシリの「開拓」を志願する「諸藩士族及庶民」に土地を渡すという太政官布をだし、九月二〇日にアイヌモシリの一部を「北海道」と名づけ、アイヌモシリ植民地化を開始した(キム チョンミ「アイヌモシリ侵略と国民国家日本の形成」、『故郷の世界史 解放のインターナショナリズムへ』現代企画室、一九九六年、二一~三三頁、参照)。
 日本政府は、一八七一年八月二九日、「廃藩置県」をおこなった。このとき、日本政府は、薩摩藩が支配していた琉球王国や奄美諸島も、鹿児島県(日本の領土)としていた。
 翌一八七二年九月一四日、日本政府は、琉球王国を鹿児島県からきりはなし「琉球藩」と名づけた。このとき奄美諸島は、鹿児島県内に残された。奄美諸島は、一五世紀後半からに琉球王国に占領支配されていたが、一六〇九年四月に薩摩藩の軍隊が琉球王国に侵入してからは薩摩藩に直接支配されていた。
 琉球王国は、鹿児島県に組み入れられることはもちろん、「琉球藩」とされることも拒否していたが、一八七九年三月、日本政府は、内務大丞松田道之らを「琉球藩処分官」として警官・兵士約六〇〇人とともに、琉球王国に送りこみ、二七日に、琉球王国を滅亡させて「沖縄県」を設置し、ウルマネシア植民地化を開始した(「琉球処分」)。
 「琉球処分」の五年前、一八七四年に日本政府地誌課がつくった「皇国全図」には、「北海諸州」と「琉球群島」が「皇国」の領域にふくめられていた。
 「日清戦争」後、一八九五年に、日本は、宮古島と八重山地域(石垣島・竹富島・小浜島・黒島・新城島・西表島・由布島・鳩間島・波照間島など)と与那国島を沖縄県に組みこんだ。
 ことし(二〇〇九年)は、薩摩藩のウルマネシア侵略開始後四〇〇年、国民国家日本のアイヌモシリ植民地化開始後一四〇年、国民国家日本の「琉球処分」後一二〇年の年である。
                                         キムチョンミ
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