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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

千炳台さん 2

2010年02月18日 | 紀州鉱山
 2008年3月、わたしたちは、安東MBCテレビの李貞姫記者ら取材班とともに、安東郡臥龍面の面事務所を訪ねました。
 李貞姫記者は、1998年8月18日から22日まで慶尚北道安東と軍威で紀州鉱山に強制連行された人たちをわたしたちが訪ねたとき同行取材し、つづいて8月29日から9月3日まで熊野市、紀和町、石原産業などで取材した記者です。その取材結果は、この年10月末に『紀伊半島に隠された真実』と題する1時間番組として韓国で放映されました。
 1998年8月から9年半ぶりに再訪した臥龍面事務所で、千炳台さんの遺族の消息をたずねました。臥龍面事務所は、方法を尽くして調べてくれました。
 ようやく遠い親戚(千炳台さんの兄千再呼さんの孫、千ソギュンさん)の電話番号を知ることができたので、電話をかけましたが、応答がありませんでした。
 この日夜、安東MBCのニュースで、わたしたちが、安東市陶山面温恵洞の林聖煕さんをたずねているときのこと、紀州鉱山の真実を明らかにする会がはじめての追悼集会を開こうとしていることなどが報道されました。このニュースは、翌日朝、韓国全国で放映されました。つづいて、3月9日の紀州鉱山でのはじめての追悼集会のあと、3月12日夜、安東MBCが制作した「紀州鉱山の真実 その後10年……」と題するドキュメンタリーが、放映されました。

 ことし2月2日安東でわたしたちは、2年前に知った千ソギュンさんところに電話をしてみました。すると、千ソギュンさんは不在でしたが、その母(千炳台さんの兄千再呼さんの子千相基さんの妻)が応答してくれました。千再呼さんも千相基さんも亡くなったが、千炳台さんの養子の千鳳基さんはお元気だとのことでした。
 午後2時半、安東市内から、安東MBCの取材車で、李記者、カメラマンとともに千相基さんの家に向かいました。
 安東市内から、冬枯れの山道をたどって20分あまり行ったところで、農作業をしていた人に道を尋ねると、その人が千ソギュンさんでした。
 千相基さんの家で、子千相基さんの妻と千ソギュンさんに話を聞かせてもらいました。千炳台さんの死後、千相基さんの弟の千鳳基さんが千炳台さんの養子になり、ずっと墓を守っているとのことでした。
 話を聞かせてもらったあと、千ソギュンさんに、千炳台さんが強制連行されたときに住んでいた家があった場所と、千炳台さんの墓に案内してもらいました。その途中、千相基さんの弟で千鳳基さん兄の千ヨンギさんが同行してくれました。
 千炳台さんの家があった所は、村の中心の道に面したゆるやかな斜面にありました。あたりには、田が広がっていました。田には薄い氷が張っていました。千炳台さんの墓は、そこから100メートルほど離れた丘の中腹にありました。墓を覆っている冬の草は、きれいに刈り込まれていました。陽が沈みかけていました。そこで、千ヨンギさんは、
   「ここに叔父の遺骨が埋められている。
    叔父の遺骨が戻った日を命日にしている。
    叔父の墓を守るために、弟の鳳基が養子になった。
    叔父は「報国隊」で日本に行く2年たらず前に結婚したばかりで、まだ子どもがいなかった」
と話しました。

 この日夜、MBCのテレビニュースの慶尚北道版で、わたしたちが、千炳台さんの遺族をたずねているときのこと、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会が3月28日に追悼碑を建立しようとしていることなどが報道されました。
                                         佐藤正人
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千炳台さん 1

2010年02月17日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山の朝鮮人について石原産業が三重県内務部に提出した報告書があります。
 これは、「朝鮮人労務者に関する調査のこと」と題されて、1946年9月26日づけで、三重県内務部長から厚生省勤労局業務課長に提出されました(以下、「紀州鉱山1946年報告書」とする)。この文書は、長い間、公開されませんでした。
 1990年5月25日に、韓国政府は、日本政府に対し、日本侵略期に、日本に強制連行された朝鮮人労働者の調査を要請しました。これにしたがって、日本政府は、同年5月28日の閣議で、内閣官房で調査することに決定し、労働省が担当しました。
 「紀州鉱山1946年報告書」は、1991年3月に日本外務省が、韓国政府に渡した第二次分名簿にふくまれていたものです。在日本大韓民国民団をつうじて1992年夏に日本ではじめて公開されたのを、紀州鉱山の真実を明らかにする会が入手しました。
 この報告書には、738人の朝鮮人の名とその本籍地や「入所経路」・「入所年月日」・「退所年月日」・「退所理由」などが書かれていますが、そのうち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」とされています。
 この報告書の内容にはうたがわしい点が多いのですが、それだけでなく、日本政府が出してきたものは、その全文ではありません。報告書本文は、三節にわかれています、日本政府が韓国政府に渡したものには、一節と二節がぬけています。
 冒頭部には、「雇入数」は、のべ計875人とされていますが、名簿部分に記載されているのは、738人だけであり、137人の名がありません。
 また、「死亡者数」10人と書かれていますが、実際に名簿部分に記載されている人は、「金本仁元」さん(1923年6月12日生。本籍:京畿道長湍郡郡内面芳木里)、南而福さん(1911年4月12日生。本籍:京畿道長湍郡津西面金陵里)、「金山鍾云」さん(1921年4月6日生。本籍:江原道麟蹄郡麒麟面北里)、「海山應龍」さん(1920年2月13日生。江原道平昌郡平昌面烏屯里)、「玉川光相」さん(1923年4月15日生。江原道旌善郡旌善面住水里)5人です。ここでは、南而福さんだけしか本名がわかりません。
 「金本仁元」さんと南而福さんは、同じ日(1942年2月28日)に、同じ京畿道長湍郡郡内面から、「官斡旋」という形式で紀州鉱山に強制連行されていました。そして、「運転工」として働かされていた「金本仁元」さんは、1945年6月1日に「公傷死」し、「鑿岩夫」として働かされていた南而福さんは、1945年5月3日に「病死」したと書かれています。
 1944年11月9日に江原道麟蹄郡麒麟面北里から「徴用」という形式で紀州鉱山に強制連行され「運搬夫」として働かされていた「金山鍾云」さんは、「病死」したと書かれていますが、死亡年月日は記載されていません。
 1945年1月21日に江原道平昌郡平昌面烏屯里から「徴用」という形式で紀州鉱山に強制連行され「運搬夫」として働かされていた「海山應竜」さんは、強制連行されてからわずか1か月後の1945年2月20日に「病死」したと書かれています。
 1943年12月1日に江原道旌善郡旌善面住水里から「官斡旋」という形式で紀州鉱山に強制連行され、「選鉱夫」として働かされていた「玉川光相」さんは、1944年3月7日に「業務死亡」したと書かれています。
 「紀州鉱山1946年報告書」では、名前が記載されている738人のうち、「死亡」と書かれている人は5人ですが、実際に死亡したのは、5人だけではありませんでした。
 わたしたちは、紀州鉱山に強制連行されていた人たちから話を聞かせてもらおうとして、1996年10月から、韓国江原道、慶尚北道などに行きはじめました。
 その際に、わたしたちは、「紀州鉱山1946年報告書」を持って、そこに書かれてある本籍地の郡庁や邑事務所や面事務所を訪ね、戸籍簿を照合してもらい、紀州鉱山に強制連行された人たちと連絡をとろうとしました。
 1998年8月、わたしたちは、「紀州鉱山1946年報告書」に、1944年5月7日に紀州鉱山に強制連行され「運搬夫」として働かされ1944年8月2日に「逃亡」したと書かれている千炳台さん(1917年12月6日生)の本籍である慶尚北道安東郡臥龍面の面事務所を訪ねました。
 千炳台さんに会いたいので、どこに住んでいるか探してほしいと言うと、面事務所では千炳台さんの戸籍簿を探し出して見せてくれました。
 そこには、「一九四四年八月壱日午前拾壱時参拾分参重県南牟婁郡川上村大字大河内五百六拾四番地に於て死亡同居者三山移植届出一九四四年八月弐日川上村長岡浅之助受付同月九日送附」(原文は日本「元号」使用)と日本語で書かれていました。
 石原産業紀州鉱山の「紀州鉱山1946年報告書」には、千炳台さんの欄に「逃亡」と書かれていたので、わたしたちは、千炳台さんは故郷に戻っているだろうと考えていました。
 日本にもどって、わたしたちは、「参重県南牟婁郡川上村」の事務をひきついでいる三重県紀和町和気の川上出張所や紀和町役場などに行って、千炳台さんなど当時紀州鉱山で亡くなった朝鮮人にかんする文書(戸籍簿、埋火葬許可書など)の閲覧を請求しました。
                                           佐藤正人
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海南島近現代史研究会第5回定例研究会

2010年02月16日 | 海南島近現代史研究会
 2月14日、大阪で海南島近現代史研究会第5回定例研究会を開催しました。
 今年は3月に紀州鉱山の追悼集会を控えてその準備作業に追われていたので開催が危ぶまれていましたが、紀州鉱山の朝鮮人労働者の強制労働が海南島の石原産業によるアジア民衆の強制労働とつながっていることを明らかにする意味でも、この研究会を開催しなければならないという決意をこめて開きました。
 また、昨年2月におこなわれた第3回定例研究会は、日本軍の海南島軍事占領の70年後に当たり、その歴史的な意味を明らかにするという主旨で開かれたものですが、その主旨を継続して問い続けるという意味でもその1年後に開かれた今回の研究会は意義深いものであったといえます。

 まず蒲豊彦さんが「三竈島から海南島へ」と題して、日本軍が海南島の軍事占領に先立って香港に近い三竈島(三灶島)を占領し、ここから大陸の主要都市に爆撃をおこなう航空基地として島が利用されたこと、日本占領下で島の住民が殺害され、あるいは餓死し、また労働者の強制連行と合わせて1万人の犠牲者を出したこと、沖縄からこの三竈島に農業移民が送りだされたこと、などについて、多くの映像を示しながら報告しました。
 次いでキム・チョンミさんが「海南島での同人会」と題して、「アジアに医学を普及し、人民の健康を保護する」という名目で1902年に組織された同人会が、軍事占領とともに海南島に侵入し、「慰安婦」の健康診断や「防疫事業」をおこなったこと、また朝鮮人の捕虜を生体解剖したという証言があることについて報告しました。
 報告の三番目は、竹本昇さんが「1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか」と題するシリーズ三回目の報告をしました。今回は、日本軍の海南島奇襲攻撃に同行した新聞記者の報告と当時の『台湾日日新報』の記事の紹介をおこない、日本のマスメディアも日本占領下の台湾のマスメディアも日本軍の「奇襲上陸の成功」を賛美し、島の住民も日本軍を「好意的に」迎えたなど報道していることを報告しました。

 休憩をはさんで、チェ・ムンジャさんから第5回定例研究に寄せられた海南省民族学会・海南民間抗戦研究会準備会の沈志成さん・海南大学の金山さん(海南島近現代史研究会会員)からのメッセージが紹介されました。
 続いて報告の四番目として、鐘翠雅さんから「曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』を読んで」と題する報告がおこなわれ、農歴1945年3月1日にいまの海南島瓊海九曲郷長仙村など9か村での日本軍による村民大虐殺について、犠牲者のひとりである曹靖さんが自力で調査した報告書を紹介し、この報告書は政府に依存しない民間人の努力によって被害の体験を記録した貴重な歴史書であると評価しました。
 報告の四番目は、斉藤が「海南島におけるY作戦と村民虐殺」と題して、『海南警備府戦時日誌』を手掛かりにして、日本軍の「Y作戦」と村民虐殺との関連について報告しました。日本軍は抗日闘争を圧殺することができず、また現地で敵の武器や食料を略奪して戦争を継続するほかなかったために、住民の襲撃、無差別の殺戮、女性への性暴力を軍事作戦の逸脱行為として偶発的に行ったのではなくむしろ正規の軍事作戦として行使したことを明らかにしました。
 報告の最後では、佐藤正人さんが、「アジア太平洋戦争開始前後の海南島侵略日本海軍の「Y5作戦」」と題して、日本政府と日本軍がアジア太平洋戦争の根拠地の「治安」を確保するために住民虐殺をくりかえしたこと、密林で毒ガス兵器を使用した可能性があること、「Y6作戦」の時期の「ミッドウェー海戦」後にも天皇制国家日本が戦争を続行したために、アジア太平洋の民衆にはかりしれない犠牲をさらに強いることになったこと、などを明らかにしました。

 各報告後に簡単な質疑・討論が行われましたが、さらに、全報告後に、参加者全員が海南島近現代史を含む日本の歴史研究と歴史教育などについて意見を述べました。
 その後、「朝鮮村」の現状について報告が行われ、最後に、今年夏の第4回海南島近現代史研究会総会を、海南島で海南省民族学会と共催の「海南島近現代における歴史と民族」と題する研究集会として開催する準備が進められているという報告がなされました。

 参加者は多くはなかったけれど、現代史研究の民衆的な方法を具体的に示す多くの報告と活発な議論によって充実した研究会になりました。
                                           斉藤 日出治
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『台湾日日新報』の記事

2010年02月15日 | 海南島近現代史研究会
 竹本昇「1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか 3」の後半の内容は、つぎのとおりです。

■『台湾日日新報』記事の内容
 『台湾日日新報』は、日本の台湾統治下で台湾総督府の植民地統治政策の遂行にとって重要な役割を果たしたメディアです。
 1895年4月17日、「日清講和条約」が締結され、日本は清国から台湾を「割譲」されました。その3年後の1898年5月6日に『台湾新報』(薩摩派)と『台湾日報』(長州派)という二つの日系新聞が合併して『台湾日日新報』が創刊されました。
 この新聞は守屋善米衛という民間人が創設した民営の新聞ですが、台湾総督府から毎年4800円の公的補助を受け、事実上総督府の官報として日本による台湾統治において重要なイデオロギー的機能を果たしました。
 『台湾日日新報』は台湾内だけでなく中国南部、太平洋諸島にまで読者を増やし、最盛期には5万部まで発行数を伸ばしました。1944年3月31日に『台湾新報』に合併されました。
 日本陸海軍の海南島奇襲攻撃直後の『台湾日日新報』の記事の内容はつきのとおりです。

●1939年2月11日 夕刊(2月10日発行)
 1頁トップに「我が陸海軍精鋭部隊 海南島に奇襲上陸」という大見出の記事、左上に海南島の地図を載せて、全ページほとんどが海南島侵略を賛美する記事で埋めています。
 10日午前9時55分大本営陸海軍部公表として、陸海軍の協力のもとに、2月10日未明に集結し、奇跡的敵前上陸に成功し、世界史の一頁に感激の金字搭を樹立したと、侵略を讃えています。また、「敵」は、海南島侵略を予想しておらず、日本軍の損害は皆無であると書かれています。
 海南島を紹介する記事として、海南島の位置、山河、土地、気候、農産物、鉱山資源、人口について、概要を記述しています。
 東京発として、海軍省記者室での海軍報道部長の記者発表を、素晴らしい奇襲上陸、奇襲的公表と賛美しています。広東の新聞も号外を発行し、「今次新作戦の断行により支那(ママ)側の日本依存の念は一層拍車がかかる」と書かれています。
 小林総督の談として「広東の攻略と同等の歓びを感ずる」とし、「軍に協力し軍の目的達成に力を致さねばならぬと考えている」と報じられています。
 この紙面にも、板垣陸軍相が、貴族院で海南島侵略を報告したという記事が載せられています。

【みだしの抜粋】
「我が陸海軍精鋭部隊 海南島に奇襲上陸 大本営陸海軍部公表」、「堂々南海を圧し 壮絶!敵前上陸 世界史に輝く不滅の金字塔 ○○艦上にて同盟特派員発」、「攻略を夢想だにせず 総司令は不在 抗日拠点覆滅間近し」、「損害は皆無 上陸は成功」、「海南島の概要 広東省所属の大島」、「広東の新聞も号外を発行 全市民皇威に驚歓」、「号外発表」、「発表も奇襲的 敵前上陸成功に歓声湧く」、「台湾と海南島は古来、関係が深い 先人の南進策を偲んで 小林総督語る」、「貴族院本会議」

●1939年2月11日 朝刊
 海南島侵略賛美の記事で埋められています。1頁にはほぼ全面に、2頁、7頁、株式欄に、記事があります。
 大本営陸軍部発表の瓊州と海口を占領、この占領により支那(ママ)西南方面の海上封鎖の効果があること、海口の住民は居住しており家も家財も破損しておらない、と報道しています。
 陸の荒鷲高橋部隊による爆弾攻撃の様子、海の荒鷲機による陸海軍の協力により、海口と瓊州を占領したと書かれています。
 海口住民に対して、日本軍に抵抗したり、敵軍に情報を提供する者は、断じて許さないと布告し、宣撫行動として布告を貼り、宣撫班の中にはユーモア作家や兵隊文学で有名な軍曹も参加していること。住民が日章旗を振って歓迎の意を表し、駐屯支那軍の暴虐を日本軍に訴えるものもある、と書かれています。
 米内海軍相と「総長宮殿下」が、東京から海南島の陸海軍に祝電を送っていること。板垣陸軍相が衆議院と貴族院で、海南島侵略を報告し、議場は感動が湧き流れたこと。小林台湾総督が陸海軍大臣などに祝電を送り、台湾神社に海南島制覇に感謝の「参拝」をしたこと。馬公(マコウ)要港部でも、原司令官が喜びを満面に表した、と書かれています。
 社説では、奇襲上陸の成功を国民の快報とし、海南島の攻略の意義としては、南支方面作戦の根拠地となり、援蒋ルートを覆滅するもので重要と書いています。さらに、イギリスとフランスに対して、阻害的行為は有害なものとして反省すべきであると書かれています。
 社説とは別に、海南島侵略は、日佛協約(1907年)になんら抵触しないとの外務省の部長談を載せています。
 海南侵略と十一日の「紀元節」を祝い、台湾全島では、総督府によって旗行列と提灯行列が行われることが報じられ、「海南島占領を祝う」として、昼は児童の旗行進、夜は一般市民が提灯行列をすると書かれています。
 この海南島侵略より先に、海南島に住んでいた民間人の声として、「皇軍の上陸を待ち焦がれていた」とし、鉱物資源が豊富であることを語っている記事を載せ、株式蘭では、海南島侵略によって、株が上がったと書かれています。

【みだしの抜粋】
「瓊州と、海口を占領 我が上陸先頭部隊」、「我に損害殆どなし」、「陸海の荒鷲交交(こもごも) 敵軍に巨弾の雨」、「海南島の攻略とその意義」、「海相が祝電」、「日佛協約に抵触せね 河相外務情報部長談」、「祝電を賜う 両総長宮殿下から陸海最高司令官に」、「抵抗すれば仮借せぬ 大日本軍司令官の名で布告」、「宣撫班も上陸 直に活動開始 布告を貼りビラを撒布」、「上陸作戦経過」、「馬公(マコウ=台湾澎湖県(ほうこけん)に歓声」、「廣西軍大狼狽 白崇禧防備を厳命」、「武器輸送路 大脅威 海上封鎖強化」、「総予算案可決 きのう衆議院予算総会にて」、「議場に興奮の渦 海南島占拠と貴族院」、「天無口」(編集者の意見のコーナー)、「海南島上陸を祝し、旗行列と提灯行列 あす全島一斉に挙行」、「海南島占領を喜ぶ人 待望の日は来た 在島四十余年の労苦を偲びつつ 勝間田老人が感慨無量」、「鉱産物は無限 上京中の平田氏は語る」、「小林総督が あす台湾神社に参拝 海南島制覇感謝の祈願」、「小林総督から祝電を発送」、「昼は児童の旗行進 夜は一般市民が提灯の行列隊 海南島占領を祝う島」、「其隆でも行列隊」、「海南島進撃の報に 上向き新東値引」、「財界株界」(編集者の意見のコーナー)

●1939年2月12日 夕刊(2月11日発行)
 1頁の最初に、海口、瓊州の占領の報道記事を載せています。2段目左に「皇軍上陸の海南島鳥瞰図」が載せられています。
 「皇軍」のために献身的に通訳その他の仕事をしていた民間人が、海南島侵略に感激の涙を流し、「わしを迫害した支那人共今こそ思い知ったらう、今日の感激は忘れることはできない、海南島は宝島だ」という語っている記事が載せられています。
 海南島侵略に対する各国の世論として、ドイツは日本軍の武威を賞賛、イギリスは軍事上の見地から相当重視、アメリカは静観、フランスは印度支那の地位が脅かされることを懸念していると書かれています。
 陸軍相が、南支那派遣陸海軍最高司令官宛に祝電を送ったこと。海口の街は、半数は生業を営んでおり、市場も平常通り開いており、平和な光景であると書かれています。
 この日の新聞にも、10日未明の海南島上陸の様子を「国民の待望久しき海南島攻略」と称して、襲撃の様子を伝えています。
 「紀元節」と海南島侵略を「感激の二重奏に沸きたる島都」と書いて、台北では、女学生、小公学校生が旗行列を行ったこと、新竹、馬公でも旗行列が行われたと書いています。行列の様子の写真が6枚載せられています。

【みだしの抜粋】
「海口、瓊州の占領で全島の死命制圧 上陸軍の神速な進撃振りは燦(サン)として戦史に輝く」、「各方面に進撃中 十一日大本営陸軍部発表」、「陸海軍の連絡成る」、「海南島は宝島だ もう思い残すことはない 勝間田翁が感激の涙」、「各国の輿論 武威を賞賛 英国は重視 米国は静観 佛国は懸念 佛蘭西の脅威」、「平和な海口街 市場も平常とおりに開店 住民の半数は正業を楽しむ」、「陸軍が祝電」、「上陸成功の信号に 湾頭に万歳の嵐 天佑、決行前に風波歇(ヤ)む」、「皇軍上陸の海南島鳥瞰図」、「感激の二重奏に沸き立つ島都 小、公、女学生徒が旗行列(旗行列の写真2枚掲載) 新竹 馬公」

●1939年2月12日 朝刊
 この日の朝刊も、1頁のほとんどが、海南島侵略に関する記事で埋められています。
 最初に、「最近露骨に援蒋政策を執り日本に不遜な態度に出でつつあるフランスに対し断乎鉄槌を下した」と延べ、佛国は黙視する模様、アメリカは直接の関心事ではない、と書いています。
 瓊州と海口を占領し日章旗を翻し、「敵の遺棄死体百九十五、捕虜四十七、捕獲品小銃四十五、小銃弾五千発、軽機一、自動車一、無電機二」を戦果して報道しています。
 海軍が、海口で軍艦旗を翻し「紀元節」を祝い、「東天を遥拝する感激に思わず記者の目頭も熱なるのだった」。大本営海軍報道部発表として、海軍航空隊が、十一日も爆撃したこと。今回の上陸作戦が、完全な秘密と気候面で恵まれたことを天佑として、神助に感謝すると書かれています。
 安藤最高指揮官が飛行機で戦火を視察し満足したこと。海南島の住民が侵略軍である日本軍を喜んで出迎えたということ。広東治安維持会が満腔の慶祝を表し、親日に邁進したいと表明していること。国民政府が狼狽し、第三国の同情を引くため誇大宣伝しているが、それは「大童の態」と書かいています。

【みだしの抜粋】
「皇軍の海南島制圧は佛蘭西に対する鉄槌 最近露骨な援蒋政策」、「佛国は沈黙」、「米は張合い抜け」、「瓊州城占領まで 途中頑強に抵抗する敵を蹴散らして進撃」、「海口で感激の紀元節」、「片ツ端から敵陣爆撃 海の荒鷲十一日も出動」、「第三国の諜報網も完全に封鎖す 作戦の成功は天佑」、「安藤最高指揮官 宣戦を視察 飛行機に搭乗して」、「国民政府も上陸を認む」、「誇大宣伝に国府は大童」、「新戦場の感更にになし 電燈煌煌として夜を照らし 住民は嬉々ちして皇軍を出迎ふ」、「満腔の慶祝 彭(ホウ)広東治維会委員長談」

●1939年2月13日 朝刊
 1頁の半分が海南島関係の記事で埋められています。
 抵抗するものには断固として追求の手を緩めぬが帰順者は積極的に援助して正業につかせるという宣撫工作が行われていること。南方の重要拠点を占拠したこと。海口、瓊州攻略が半日満たない時間で遺棄死体250として、戦果を誇っていること。支那(ママ)側の武器輸入を図っていた西南ルートを完全に遮断したこと。海口の住民が日本軍を歓迎したと書き、海口に維持会が結成され、日本軍に協力を求めたと書かれています。
 フランスが、海南島占領について、日本政府に申入れることが記されています。

【みだしの抜粋】
「海南島に散在の敵総勢数は1万 帰順者は積極的に援助」、「○○重要地点を占拠」、「敵の遺棄死体二五〇」、「西南ルート完全遮断」、「海口に維持会 皇軍に協力方を懇願」、「佛が日本に申入れ 海南島占領について」

●1939年2月14日 夕刊(2月13日発行)
 1頁に、海南島と雷州半島の空爆の様子。海口海関を接収したことをアメリカの海口税関長に申し入れ、アメリカは異論がないと応えたこと。フランス領事館を訪問し、フランス側から、治安確保に対して感謝されたこと。海口には、総領事館出張所が設けられたこと。イギリス政府もフランス同様、海南島占領について日本政府に申入れを行う予定であること。海口湾上陸における海岸の砂地を驀進(ばくしん)した様子を、堤○○部隊長の話として掲載しています。

【みだしの抜粋】
「海南島、雷州半島の要地を海軍機が爆撃 陸戦隊は残敵を掃蕩」、「海口海関を接収 十三日正式に申渡す」、「一尺もめり込む 渚の砂地を驀進 堤○○部隊長の話」、「日本軍の親切に敬服 佛領事が懇篤な答禮」、「英国も申入れ」、「総領事館出張所 早くも設置 松平総領事が海口へ」

●1939年2月14日 朝刊
 社説では、海口と瓊州の住民が喜んで皇軍を迎え、逸早く治安維持会の結成に皇軍の協力を求めている、フランスとイギリスの制海権を遮断して痛快の極みである。イギリス・フランスから申入れがあっても意に介する必要がない。蒋政権の武器供給を絶つべき、と論じています。
 13日の衆議院本会議で板垣陸軍相が海南島侵略のための上陸の成功を報告したところ、満場一致の拍手が起こり、感謝文を送ることを決議しことが書かれています。
 有田外相がフランス大使に、海南島占領は軍事上の必要からであることを説明し、フランス大使が了承した。イギリスも、海南島占領について日本政府に説明を求めるであろうと書いています。「満州」の「新京」では、海南島攻略が成ったとして台湾総督児玉太郎を記念して児玉公園を建設したことが写真入りで報道されています。
 海口では、皇軍を歓迎し市民が敵意を持たず、自治会の結成が図られている。不時着の飛行機の中で援軍を待つ日本兵を、海南島の住民が助けたことをもって、海南島民が支那(ママ)軍の圧制から解放され、日本軍を喜び迎えていること示す一例と書いています。海口市街などの写真4枚が掲載されています。
 近藤海軍最高司令官が戦場跡を視察し、「よくやってくれた」とつぶやき感激の涙が光っていたと書いています。
 香港に居住している海南島関係団体が、海南島侵略に驚き、緊急会議が開かれたと書いています。

【みだしの抜粋】
「社説 海南島の攻略と所謂申入れ 無介意で目的に邁進」、「感謝決議文」、「新京に“児玉公園”建設(「南支から遂に海南島の攻略まで成った」とのキャプションに写真掲載)」、「英佛が共同措置」、「海口に新秩序建設 市民は避難せずに皇軍を迎ふ 自治体結成は旬日(ジュンジツの間」、「近藤海軍最高指揮官 戦跡を視察 海南島に上陸して」、「軍事上の必要から海南島を占領 有田外相、佛大使に説明」、「けふの両院」、「海南島に咲いた日支親善の華」、(海口市街の写真掲載)

●1939年2月15日 夕刊(2月14日発行)
 1頁におおみだしをつけて、海南島の南部の侵略を大々的に掲載しています。三亜、新村を占領したこと。瓊州にも自発的に治安維持会の結成されつつあり、日本軍に指導を懇請したと書いています。貴族院本会議では、海南島侵略について、感謝と祝賀の電報を発することを決議したと書いています。
海南島侵略に驚いた白崇禧が、桂林で会議を開くことを決定したと書かれています。
 海南島の概要として、崖縣の交通は不便、三亜港は大型船の出入り困難との説明が書かれています。「その日その日」の蘭では、海南島から矢継早の快報と書かれています。

【みだしの抜粋】
「海南島の南部にも陸戦隊が敵前上陸 南進の陸部隊に策応」、「東西に向け分進」、「南端の三亜街を占拠」、「新村を陥れ○○○へ」、「瓊州にも治維会 有力者が結成申合せ」、「西南軍将領に桂林参集を命ず 海南島占領に驚き」、「海南島攻略の皇軍に感謝決議 十四日貴族院本会議」、「感謝決議文」、「その日その日」、「海南島の概要(二) 崖懸の地勢と面積」

●1939年2月16日 夕刊(2月15日発行)
 1頁のトップに、海南島の全島民が皇軍を歓迎し、蒋政権からの独立の気運が高まっていること。楡林を完全に占領したこと。アメリカのアジア艦隊駆逐隊司令ジョン・ズタップラー大佐が、皇軍の手によって在留米人の生命財産が完全に保護されていることに感謝したと書かれています。フランスが、日本の海南島占領に伴って、カムラン湾の軍事施設を強化するため3億法(フラン)を予算化したこと。海南島占領によって雲南の人々が恐怖に怯えていると報道されています。
 海南島の概要として、崖縣県知事が行政を改革したことや税制度を見直したということが書かれています。

【みだしの抜粋】
「海南島 独立機運澎湃(ホウハイ) 挙島皇軍を歓迎」、「楡林を完全に占拠」、「目的の○○に肉薄」、「日米交驩(コウカン)の乾杯 ズ米国駆逐隊司令が我が両司令官を訪問」、「佛がカムラン湾の軍事施設強化 三億法を予算に計上」、「雲南の人心恟恟(キョウキョウ)」、「海南島の概要(三)」
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「記者の観た海南島」

2010年02月14日 | 海南島近現代史研究会
 今日(2月14日)、午後1時から5時40分まで、海南島近現代史研究会第5回定例研究会を開きました。
 今年1月7日に、このブログでお知らせしたように、つぎの6報告がおこなわれました。
 【Ⅰ】 蒲豊彦「三竈島から海南島へ――もう一つの南進政策」。
 【Ⅱ】 キムチョンミ「海南島での同仁会(研究ノート)」 。
 【Ⅲ】 竹本昇「1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか 3」。 
 【Ⅳ】 鐘翠雅「曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』を読んで」。        
 【Ⅴ】 斉藤日出治「「Y作戦」と住民虐殺」。
 【Ⅵ】 佐藤正人「アジア太平洋戦争開始前後の海南島侵略日本海軍の「Y5作戦」」。

 このうち、竹本昇「1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか 3」の内容を、今日と明日、2回にわけて掲載します。
                   
■「記者の観た海南島」
 1939年2月、日本軍の海南島奇襲攻撃に取材した新聞記者の報告文「記者の観た海南島」が、『海を越えて』1939年5月号(拓殖奨励館発行)に掲載されました。
それは日本軍の海南島侵略を賛美し、海南島の資源略奪を促すものでした。その内容は、つぎのようなものでした。原文には*印をつけました。

1).「皇軍占領下の海南島」(『東京日日新聞』特派員篠原二郎)
  『東京日日新聞』は、1872年2月創刊。1943年1月1日号から『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』が題号を統一し、『毎日新聞』となり、現在に至っています。

 はじめに篠原二郎記者は、つぎのように書いています。

*1939年2月10日(原文は「元号」使用)、この日南方支那(ママ)軍の拠点、海南島上に、日章旗は厳然と輝いた
*この記念すべき日こそ、南進日本の来るべき飛躍の第一歩
*筆者はわが青史に不滅の栄光を輝かした海南島攻略戦に従軍
*新東亜建設のため活躍する皇軍将士のめざましい姿を感激の涙をもって見守った
*今この忘れようとしても忘れ得ぬ感激と感銘の生々しい体験を通じて皇軍占領下の海南島について筆を進め度い

 続いて篠原二郎記者は、海南島の自然環境について、緯度による海南島の位置、海南島を囲む東西南北周辺の地理、台湾の1.15倍という面積を紹介し、地勢については、黎母(れいぼ)山脈が東西に走り島を二分し、北は平原地方、南は山岳地帯、四方に流下する河川に沿う平原は地味肥沃で農耕に適しているとし、気候については、南北の気候の違い、山岳地帯と海岸地方の気候の違い、夜と昼の気温の違いが大きいと報告しています。
 また、伝染病について、衛生施設と予防知識がないためマラリアとペストなどの伝染病が流行するので、島全体が瘴癘(ショウレイ=伝染性の熱病)の地とみられていたが、奥地を除いては、そうではないと報告されています。
 海南島をはじめ東南アジアの住民に対して、極めて差別的で偏見に満ちた記述がなされています。

*海南島住民は元来、罪囚、流民の子孫
*島民の性質は概ね素朴、勤勉であるが、・・・南部方面では・・・退歩的なイージィ・ゴーイング(安易)な生活を営んでゐる
*皮膚色の赤黒い点、半裸体の生活はまさに椰子の木陰に踊る南洋土人(ママ)なのである

 海南島の住居や食生活についても触れ、ここでも蔑視観に満ちた記述がなされています。そのことを原文では次のように記しています。

*南部の郷村(きやうそん)では低矮な泥または石造茅屋(ボウオク)に跼居し下水、窓、便所もなく家畜も家屋の附近に放牧し、不潔なことは全くお話にならない
*食物も一般に米、薯芋(さつまいも)、山薯(やまいも)、黎栗(れいりつ)を常食とし最も文明に遠い生活を営んでゐるのである

 海南島の住民は、漢族及び黎族に大別され、黎族は更に黎族及び苗族に分かれる。苗族は、漢民族以前に既に支那大陸(ママ)に足跡を印した民族で、伝統的に支那人(ママ)を嫌悪していると記しています。
 海南島の貿易と金融について、未発達で零細であると見下した記述がみられます。そのことを原文では次のように記しています。

*相当繁華は市場があるが、これらは地方農産物、または海産物の集散地といふに過ぎず
*海南島で多少でも能力のある者は華僑となり、無能力者や家族のものが残って僅かに農耕に従事するという有様で、而(しか)も彼らは天に任せて食う式であってみれば気概のある華僑でも財産を積む成功者は極めて稀
*徒(いたづら)に暖衣飽食を理想とするのみである。かうした事情から天恵的に可成の資源を擁しながら企業熱も起こらず、従って金融機関は甚だ幼稚であり、経済界と呼ぶに足るだけの経済活動をしてゐない

 産業については、農業を第一の産業で幼稚なものと報告し、他の産業については、資源略奪を促す記述がなされています。そのことを原文では次のように記しています。

*土地は豊沃、雨量も潤沢・・実に南方の一大天然農場・・併し耕地の利用は極めて幼稚
*林業整理は海南島に於いて今後なすべき重要な問題の一つ
*水産業・・・技術が幼稚でなほその上漁獲物の輸送が不便な為、産額は僅少
*鉱業・・・・想像する所まいぞう資源は極めて有望
*今後調査の進むと共に新たな資源の発見も尠(すくな)くはないであらう
*海南島の鉱山資源は全く自然のまま保存せられ、開発を今やおそしと待ってゐる
*塩業・・・本島重要産業の一つとして将来の発展が期待されている

 続いて篠原二郎記者は、自分が見た生物として、蛇、サソリ、ゲジゲジ、ポケットモンキー、九官鳥、イタチについての報告をしています。
 そして、日本軍が占領した海南島を「新生海南島」と称して侵略統治を称え、資源略奪を促しています。そのことを原文では次のように記しています。

*海南島は今や皇軍の庇護の下に、行き届いた治安、宣撫の下に、永き眠りから醒めて新生海南島の黎明の歩みを力強く踏み出したのである
*繰り返して言ふが、海南島は今こそ日章旗の下に明日の希望につつまれながら新たに生まれたのせある
*今まで放置されてゐた埋蔵資源は、やがて新東亜建設の尊い資源として白日下に現れはれ、豊沃な地上の産物はその質に於いて、また量に於いてめざましい飛躍をとげる時がいま訪れたのである
*死せる南海の寶(たから)の島は、わが日本の指導によって名実共に備わった寶の島と生まれかはるのである
*海南島に雄雄しくも輝かしい皇国の栄(は)えを讃えて、へんぽんとひるがえるに日章旗の頼もしさよ
*南海の寶島は双手(そうしゅ)をあげてわが開発の斧を待ってゐるのだ
*軍事上のことはさておき、経済上からみた場合に於ても、海南島開発の一日早いことは今後の新東亜建設にどれほどの効果をもたらすか、今更言葉をまたずして明白なことであり、同時に最緊急時
*「眠れる寶島を生ける寶の島とせよ」筆者は重ねてこう叫び度い。そしてその日の最も近きことを心から願ふ


2).「海南島を観る」(『讀賣新聞』特派員長倉栄)
 この報告文では、海南島を侵略したことを「南進」と称して積極的に評価し、海外侵略を扇動しています。そのことを原文では次のように記しています。

*わが国民の大部分が陥つている欠点であるのだが、海外に対する関心は全くなく特に『南』に対する関心は希薄である
*今次支那事変により「南進」といふ必然の齎(もたら)した結果は、「南」といふ観念を大きく国民に植ゑつけたことは事実
*この飛躍的発展は正に喜ぶべき現象である

 日本の「南進」を国策とすることを評価するために、南支那(ママ)としての広東を「広東における滞在中の観たままを列記する」として、広東の産業を未発達とする侵略者の文明の視点から捉え、広東を南支那(ママ)の唯一の都市として、広東の支配を通じて「南進」を呼びかけ、他国の資源の略奪を扇動しています。そのことを原文では次のように記しています。

*産業各部に亘ってみると、全く杜撰(広東の状況)
*企業、乃至は生産手段に至っては、拙劣を極めている(広東の状況)
*為政者の悪政と俟って農耕技術の不進歩的な封建農業(広東の状況)
*南支(ママ)の無限とさえ誇張し得る物資の寶庫は、我々に新しい関心を喚び起こさせると同時に、今後これが活用は広義における東亜民族としての義務ではなからうか

 そして、海南島侵略を「南進」による資源略奪の実現としています。そのことを原文では次のように記しています。

*南海の約二千六百五十方理(方理)といふ大きな島を思い浮べただけで、我々は堪らない魅力に誘われた
*わが聖戦の錦旗(きんき)は南海の怒涛を蹴って翻ったのだ

 続けて、海南島の海口を「島随一の都」、海口港を「海陸交通の要地」と称して、海口港が雷州半島とシンガポール、「南印度シナ」、シャム、馬来半島等の寄港地であることや、海口の人口を約四萬五千四百五十四名、戸数四千五百二戸と報告しています。
 長倉栄記者は、「皇軍」の海口上陸作戦に参加したと書いています。
 ○○機に便乗し海南島を一周したことを報告する文章では、「椰子山大森林」、「稲が青々と成長」、「糖キビの畑」、「ゴム林」に触れ、資源略奪の品定めをしている報告となっております。海南島侵略が資源略奪であることを原文では次のように記しています。

*南国の植物、その他の鉱物類を未知数に抱蔵してゐる
*本島はこれからが、第一歩の開拓の鍬が入れられるのだとさへいひ得るであろう

3).「わが軍攻略下の海南島」(『中外新聞』特派員藤田英雄)
 『中外新聞』は、1876年12月に発行された『中外物価新報』を起源とし、1889年1月に『中外商業新報』と変更し、1942年11月に『日本産業経済』に改名された現在の『日本経済新聞』です。
 この藤田英雄特派員の「昨年の十一月の十二日バイアス湾攻略の直後、今度は海南島占領だといふので、私は海軍の従軍記者として特派されました」で始まる文章から、日本軍と新聞社が早くから組織的計画的に、海南島侵略が決定されていたことを知ることができます。
 藤田英雄記者は、「飛行機で宣撫の伝単を撒いたところが店を閉める位の程度」と書いています。
 定安の南渡江の減水期は、舟運の便がなかったこと。外国の権益は、教会や病院だけであること。海口の町では、靴屋が多いこと。瓊山では墓場が多いこと。楡林港は調査がなされていないが、珊瑚礁を取り除けば港としては相当有望であるが、アンペラ(高さ0.5~2メートルになる草)造りで椰子の葉で屋根を葺いたと言ってもよく、現在の手を入れない都市は見るべきものがないと報告しています。
 三亞港は、戸数百五十戸か二百戸。三亞から楡林にかけては椰子の原始林であること。中山公園で日本部隊が飯を食ってゐたとき、鉄兜をかぶった13歳ぐらいの子どもを捕らえたこと。崖懸城には旅団指令部があったが、国民党政府軍が逃げだした後であることを報告されています。
 文昌は、人口は五、六百、二百軒のうち四十五軒が商売をしていたこと。外国の権益と言ってもスタンダードの石油会社の支店が一軒あるだけであること。嘉積にはフランスの病院があること。定安にはイギリスの教会があること。フランスが文句を言ふのは雷州半島の廣州湾を持って居るからで、海南島それ自体に外国権益は直接ないこと。文昌には裁判所も監獄もあること。清瀾では椰子が多いこと。飛行艇の上から見ると、全島バスの通る道が沢山あるからこれを使ってバスをすぐに造ることができることなどが報告されています。
 藤田英雄記者は、最後に、中国東北部への侵略に対置して、海南島の資源収奪を進めるべく提案を行っています。

*文明の程度は全く低いのです
*農業移民としては、満州移民みたいな国策的な移民よりは、純粋な経済移民は或いは海南島の方がいいのぢやないかと思います
*組織と資本と技術を持ったものは、大いに発展すべき楽土

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海南省民族学会と金山さんから

2010年02月12日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会第5回研究集会が明後日(2月14日)に迫りました。
 海南省民族学会、および海南島に住む海南島近現代史研究会会員の金山さん(朝鮮族)からメッセージが寄せられました。

 
             
  值此海南岛近现代史研究会第五回定例研究会即将召开之际,海南省民族学会谨向贵会及全体会员表示衷心的祝贺和崇高的敬意。
  几年来贵研究会为究明日军侵琼真相付出了巨大的努力,取得了令人瞩目的成果,可喜可贺。
  以史为鉴、共创未来,是中日两国共同的责任和义务。
  海南岛近现代史研究会卓有成效的工作,对于还原历史真相,帮助更多的人、尤其是年轻人了解那段令人痛心的历史,具有非常重要的意义。
  在过去的两年多的时间里,海南省民族学会与贵研究会之间进行了有益的交流和初步的合作,王建成、金山、庞柯、龙凤等几位会员还专门前往日本大阪列席了贵研究会的全体会议。
  我们真诚地希望今后与贵研究会的交流能够开展得更广泛、更深入,并愿意为此作出努力。
  最后,衷心祝愿此次定例研究会取得圆满成功!
                                         海南省民族学会
                                          2010年2月11日


  欣闻海南岛近现代史研究会第五回定例研究会即将于2月14日在大阪召开,我谨向研究会及研究会的全体同仁表示衷心的祝贺。
  几年来,通过与佐藤先生、小谷先生、齐藤先生、金静美女士等的多次接触,通过赴日参加研究会的全体会议及浏览研究会的网页,我更深入地了解了研究会的活动内容和成果。
  对各位同仁卓有成效的工作,我感到无比的骄傲和自豪。作为研究会的一员,我愿意为研究会的工作投入更多的时间和精力,尽自己微薄之力协助各位同仁在中国开展调查工作。
  真诚地希望,目前正在商讨中的海南省民族学会与近现代史研究会的共同研究会,能够在今年夏天在海口顺利举行。
  期待着与各位同仁在海口相见。
  最后预祝大会圆满成功!祝各位同仁身体健康、万事如意!
                                         金山
                                          2010年2月11日
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海南民間抗戦研究会準備会から

2010年02月10日 | 海南島近現代史研究会
 2月14日の海南島近現代史研究会第5回研究集会が近づいてきました。
 海南島で、はじめて民間で海南島の近現代史研究会の結成を準備している瀋志成さんから、メッセージが寄せられました。


  祝辞

  获悉贵研究会第5回定例研究会于2月14日在日本大阪産業大学召开,在此表示我们的敬意和祝贺!
  贵研究会于2007年8月5日创立以来,已经成功举办了四次,影响深远。尤其是佐藤正人、小谷英治和金静美等同仁为调查日军侵琼的历史真相,十余次来到海南,深入矿山、林区、乡村,对侵琼日军制造的种种血腥惨案、肆虐的性奴役罪行和疯狂的经济掠夺展开调查,并在调查期间向当地村民放映《日本占领下的海南岛》纪录片;赴海南保亭看望“慰安妇”受害者等等。贵会在日本国去东京声援“慰安妇”证人,向日本市民散发自制的《倾听海南岛战时性暴力被害者的控告》宣传册,在东京高丽博物馆、京都丹波锰记念馆举行《日本占领下的海南岛》展示会,出版《日本侵略海南岛和海南岛抗日反日斗争的史迹》写真集,以及筹款建造万宁月塘村追悼碑等壮举,都令人感佩。
  我们正在筹建《海南民间抗战研究会》,并已着手编写《海南岛抗战大事纪要》,开展琼崖抗战田野作业等工作,愿与贵会在研究日军侵占海南岛的史实和真相有更深的沟通和合作。 
  先前贵会佐藤正人先生多次为我们的抗战田野记录提供了可贵的线索,表示衷心感谢!
  预祝海南島近現代史研究会第5回定例研究会圆满成功!
  敬礼
                          海南民间抗战研究会筹备组 沈志成
                                   2010年2月9日于海口
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申應龍さん

2010年02月08日 | 紀州鉱山
 1月22日にこのブログに掲載した追悼碑建立宣言の最終案に、
   「朝鮮の故郷から強制連行されて、一か月後に命を失った人もいました」
と書いてありますが、その人の名は、「海山應龍」さんです。
 石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」では、「海山應龍」さんの本籍地は江原道平昌郡平昌面烏屯里、「入所日」は1945年1月21日、「死亡日」は1945年2月20日と書かれています。
 「海山應龍」さんの本名は、ことし1月22日の時点ではわかりませんでした。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会では、ことし2月1日に、江原道平昌郡に行き、「海山應龍」さんの遺族を探しました。
 まず、平昌郡庁を訪ね、民願課戸籍係に、「海山應龍」さんの遺族のことを調べてもらいましたが、「海山」という姓(日本占領期に創られた氏)では調査のしようがなく、「應龍」という名だけでは、検索できないとのことでした。
 郡庁にある戸籍簿は、すべて電子化されているが、平昌邑事務所には原簿があるのでわかるかもしれないというので、郡庁から歩いて10分ほどの平昌邑事務所に行きました。
 しかし、平昌邑事務所の民願課戸籍係にくわしく調べてもらっても、わかりませんでした。戸籍原簿のほとんどは、朝鮮戦争の時に消失してしまった、とのことでした。
 それで、烏屯里に行って見ることにしました。
 平昌バスターミナルから堤川方面に行く平昌川の右岸沿いの道を3キロほど下って右折して4キロほど山のほうに、氷の張った棚田が左右に見える道を進むと鳥屯里に着きました。
 バスを降りて、ゆるやかなのぼり坂になっている村の道を登って、高齢者の方が住んでいる家をたずね歩きましたが、「應龍」さんのことを知っている人には出会えませんでした。
 もと来た道を下って、老人会館に向かいました。大きな松の木が3本立っている丘の上に老人会館はありました。
 老人会館に登る道の入り口で、通りがかった70歳くらいの人に、日帝時代に日本の紀州鉱山に強制連行された「應龍」さんを知らないか、と訊ねました。
 その人は、「應龍」さんの甥の申永洙さんでした。「海山應龍」さんの本名が申應龍さんだということがわかりました。鳥屯里に着いてから50分ほどたった午後1時ころでした。
 老人会館のすぐ下にある申永洙さんの家で、くわしく話を聞かせてもらいました。
 申永洙さんに、紀州鉱山で亡くなった方の名簿を見てもらうと、金學錄さんも江原道平昌郡平昌面薬水里のひとだということがわかりました。薬水里は烏屯里の隣村です。金學録さんの名は、石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」には書かれておらず、わたしたちは、石原産業の『従業物故者 忌辰録』と慈雲寺の『紀州鉱業所物故者霊名』のなかで発見しました。石原産業が日本厚生省に1946年に提出した「紀州鉱山1946年報告書」は、紀州鉱山で死亡した千炳台さんが「逃亡」と書かれているなど、極めてズサンな報告書です。
 申永洙さんのおじの申應龍さんと薬水里の金學録さんの遺骨は、1945年以前に、いっしょに日本から故郷に運ばれてきたそうです。
 申永洙さんに偶然出会い、話を聞かせてもらうことによって多くのことを知ることができました。
 申永洙さんと別れ、申應龍さんの遺骨が埋められたという烏屯里の旧共同墓地に行きました。そこは、川沿いの細長い村の全景を見渡すことができる山腹にありました。
 夕方、烏屯里から薬水里まで1時間ほど歩き、村人に金學録さんのことを訊ねました。遠い親戚の人が村にいるが、いまは、龍平(ヨンピョン)に働きに行っているとのことでした。
                                           佐藤正人
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熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」について 4

2010年02月01日 | 紀州鉱山
 在日本朝鮮人総聯合会三重県本部、在日本大韓民国民団三重県地方本部、紀州鉱山の真実を明らかにする会の3組織で構成する紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会が、熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」について、昨年9月11日に、熊野市市長と熊野市教育長におこなった質問に対して、10月16日付け文書でその回答が届きました。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会は、その回答に対する再質問書を、きょう(2月1日)、熊野市市長と熊野市教育長に郵送しました。以下は、その全文です。
 昨年9月11日、10月20日、10月30日の、このブログの書きこみを参照してください。


■熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」について 再質問
                     2010年2月1日
 熊野市長   河上敢二さま
 熊野市教育長 杉浦道之さま

         紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
                    在日本朝鮮人総聯合会三重県本部
                    在日本大韓民国民団三重県地方本部
                    紀州鉱山の真実を明らかにする会
          
 2009年9月11日に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会は、河上敢二熊野市長と杉松道之熊野市教育長に、熊野市が文化財に指定している「史跡 英国人墓地」について、質問をおこないました。
 それに対し、同年10月16日に、濱口幸治熊野市教育委員会社会教育課長から回答があり、冒頭に、
    「今回から社会教育課長名で回答させていただきます。ご了解ください」
と書かれてありましたが、了解できません。この重要な問題にかんして、わたしたちは、河上敢二熊野市長と杉松道之熊野市教育長に質問しているのですから、誠意をもって、河上敢二熊野市長と杉松道之熊野市教育長がみずから回答してください。
 昨年10月16日の回答では不十分なので、再度質問します。2月15日までにお答えください。

再質問1
 先の回答に、「現在の英国人墓地は1981年(原文は元号使用)頃に、紀和町の住民の方が個人で作ったもの」、「現在の英国人墓地は、1981年頃に紀和町の住民の方が個人で移設した史跡」と書かれています。これは、紀和町(現熊野市)は、「現在の英国人墓地」の制作あるいは移設には、一切関与していないということですか。

再質問2
  「現在の英国人墓地」に立てられている「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」と題された碑には、「1987年6月吉日」という日付で紀和町教育委員会署名の碑文が書かれています。
  「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」と題された碑が建てられる6年ほど前の「1981年(原文は元号使用)頃」に、「現在の英国人墓地」を「紀和町の住民の方が個人で作った」というのは、事実ですか。
  「紀和町の住民の方が個人で」作ってから6年ほども経過してから、「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」と題された紀和町教育委員会署名の碑が建てられた経緯・理由を示してください。

再質問3
 この碑文に「紀和町教育委員会」と署名されていますが、この碑の建立には、紀和町教育委員会は、まったく関与していなかったのですか。
 この碑の裏側には、「協賛者 石原産業、紀州砕石、奥建設奥岩太(ママ)、和文書吉井淳、英文書大川寿子」という石板が埋め込まれていますが、この碑を建てたのは、だれなのですか。

再質問4
 先の回答に、「第2次世界大戦中に旧紀和町で亡くなられた16名の英国人捕虜の方を埋葬していた場所を、1965年2月1日に史跡「所山の外人墓地」として町文化財に指定していたものであり、1981年頃に現在地に移設……」と書かれています。
 1965年に指定文化財としたものの一部を、「1981年頃に」別個の場所に移設したものを、熊野市が熊野市指定文化財としているのは、熊野市文化財保護条例に違反することではないのですか。

再質問5
 先の回答に、「「現在の英国人墓地は、1981年頃に紀和町の住民の方が個人で移設した史跡であり、1987年5月30日付けで旧紀和町が墓地を含めて石原産業株式会社から土地の寄贈を受けたものと同一のものであります」と書かれています。
 指定文化財の移転については、熊野市文化財保護条例第7条では「所有者の変更」の規定が設けられており、教育委員会がその手続きの担当部署になっていますが、寄贈を受けた際、教育委員会は、条例の規定に基づき、どのような措置を講じましたか。

再質問6
  「外人という表記は差別用語であり好ましくないから」として「外人墓地」という「表記」を変更するときに、「外国人墓地」と変更しないで、「英国人墓地」と変更した理由を示してください。

再質問7
 英国人捕虜を埋葬した場所は、「所山の外人墓地」であり、それを町の文化財としたとのことですが、それでは、同じく旧紀和町で亡くなった朝鮮人を埋葬した場所は、どこなのですか。

再質問8
 先の回答に、
    「第2次世界大戦中に旧紀和町で亡くなられた16名の英国人捕虜の方を埋葬していた場所にあったイギリス兵の遺骨は、戦後、横浜市の英連邦墓地に移設されており、現在の英国人墓地には埋葬されておりません。また、1981年頃に現在地に移設する際に、元の場所を重機で掘り起こしたところ壺が発見され、中に灰が入っていたため、壺を割って現在の英国人墓地に灰を埋めたと聞いております」
と書かれていますが、このことを聞いたのは、熊野市長ですか熊野市教育長ですか。
 このようなことを言ったのは誰ですか。
 「イギリス兵の遺骨は、戦後、横浜市の英連邦墓地に移設されており、現在の英国人墓地には埋葬されておりません」ということを熊野市長・熊野市教育長が知ったのはいつですか。
 それは、どのようにして確認したのですか。

再質問9
 熊野市が、イギリス兵の遺骨が埋葬されていない「現在の英国人墓地」を文化財として指定している理由を示してください。

再質問10
 「現在の英国人墓地」に埋められているという「灰」は、イギリス兵の遺骨の灰なのですか。
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