三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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東アジアにおける一九一〇年 6

2010年02月25日 | 個人史・地域史・世界史
■二〇一〇年
 国民国家フランスの形成は、一七八九年のフランス革命を契機としていた。
 国民国家日本の形成は、一八六八年の「明治維新」を契機としていた。
 フランスでは、王制廃絶を契機として「国民」が形成されはじめたが、日本では、王制復活(「大政奉還」)を契機にして「国民」が形成されはじめた。正確にいうなら、このとき日本で形成されはじめたのは、「国民」ではなく「臣民」であった。
 日本の「臣民」が「国民」となったのは、一九四五年八月以後である。
 天皇ヒロヒトが、一九四五年八月一四日午後一一時過ぎに録音した「ポツダム宣言」を受諾する「詔書」が、八月一五日正午に、「キミガヨ」のあと放送された。
 その「詔書」で、ヒロヒトは、「忠良なるなんじ臣民」にたいし、「神の国」である日本は不滅だが、敵が残虐な爆弾を使うのでこれ以上戦争をつづければ民族が滅亡し、人類の文明が破滅するので、ポツダム宣言を受諾すると言い、さらに「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」、「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」などと無恥のコトバを並べていた。
 その数年後、日本の「臣民」は日本の「国民」となったようだ。一九四六年一一月の天皇ムツヒトの誕生日に公布され一九四七年五月三日から施行された日本国憲法からは、「臣民」は消えていた。日本国憲法前文の主語は、「国民」である。その憲法で、ヒロヒトは病死するときまで、日本国の象徴および日本国民統合の象徴となっていた。
 ヒロヒトの死後、その子アキヒトが、現在まで、日本国と日本国民統合の象徴となっている。

 国民国家日本は、形成期いらい一貫して、天皇制と他地域・他国侵略の経済的・政治的・社会的・文化的構造を維持しつづけている。
 国民国家日本の軍隊と企業は、アジア太平洋各地で、おおくの人のいのちを奪い、大地と海を侵し、資源や生産物を略奪してきている。
 その巨大な侵略犯罪の責任をとろうとしないまま、膨大な物質的・精神的債務を支払おうとしないまま、天皇制を維持し最悪の侵略犯罪者天皇ヒロヒトの誕生日を国民の祝日としたまま、国民国家日本は、「東アジア共同体」を形成しようとしている。
 
 一九一〇年から一〇〇年が過ぎようとしている。
 一九四五年八月一四日以前も以後も、国民国家日本の体制は変わっていない。
 国民国家日本の他地域・他国侵略の構造を破壊する東アジア民衆の共同闘争の網状組織を広げていき、世界的な解放のインターナショナリズムを強固にする道を、反日抗日闘争を戦いつづけたアジア太平洋各地の民衆の生活・労働・闘争の軌跡に学びつつ、わたしも進んでいきたい。
                                            キムチョンミ
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