三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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フィリピンにおける石原産業 12

2010年07月30日 | 紀州鉱山
 ここに連載中の「フィリピンにおける石原産業」の1、2,3で触れましたが、フィリピン侵略日本陸軍の人見報道隊が「「パナイ」島「アンチケ」州「サンホセ」附近一般民情ニ就テ」を出したには、1942年12月20日であり、「「パナイ」島「サンホセ」附近ニ於ケル石原産業ヲ中心トセル一般比人ノ対日感情ノ現況ト対策」と題する文書を、石原産業アンチケ鉱山長あてに「比人労働者取扱上ノ参考資料トシテ送付」したのは12月23日でした。
 それは、アンチケ鉱山附近で、石原産業「従業員」14人が死んでから3か月後のことでした。
 抗日反日武装組織による攻撃後も、石原産業はアンチケ銅山からの資源略奪を続けました。
 その際、石原産業の日本人は、フィリピン人にたいして「場合ニ依テハ拳銃ヲ擬シテ恐迫シ拉致同様ニ引致」して働かせ、休日を廃止し、休憩時間を短縮しました。石原産業の日本人は、フィリピン人にたいし「平手打」などの暴行をおこない、鶏や野菜などを「騙取掠奪」しました。アンチケ鉱山の石原産業の日本人は拳銃などの武器をもっていましたが、このような武器を民間人が持ち使用することは日本軍の承認なしにはできないことでした。
 人見報道隊(隊長、人見潤介陸軍大尉)は、「一部ニ於テ実施セラレタル労働者強制徴発ニ依リ一部比人ハ拉致同様ニ引致セラレ強制労働ニ服サシメラレ且兵器ヲ以テ恐迫セラルヽ事シバシバナリ」と報告し、それが石原産業の「下級日本人」によるものであると「批判」していますが、このような暴行・略奪は、フィリピンでだけでなく日本軍が侵入したアジア太平洋の各地で日本兵がおこなっていたことでした。
 三井鉱山は、日本軍のフィリピン侵入3か月後の1942年3月から、ルソン島のマンカヤン銅山の資源略奪を開始しました。『大阪朝日新聞』(1942年3月27日)に、つぎのような記事が掲載されています。
    【バギオにて 扇谷特派員二十六日発】皇軍の占領以来すでに三ヶ月フィリッピン諸島
    の中心地ルソン島はバタアンの一角を残しほぼ全島にわたって治安が確立され力強い
    建設の歩みを踏み出しているが各産業部門に魁けて中でも資源開発は急速調に進めら
    れ世界的に有名なバギオ金山ならびに品位の優秀な点では東洋一と称されるマンカヤ
    ン銅山がこのほどわが軍により確保された、同時に内地からは早くも三井マンカヤン
    銅山調査隊団長山下諭吉氏が乗込み警備隊に守られつつ鶴嘴を揮っているなど占領即
    建設の面目を遺憾なく発揮、フィリッピン資源の扉は今新東亜建設の脚光を浴びて開
    かれようとしている。……
 1945年春、「防衛」のためにマンカヤンに入った日本兵のひとりであった山田善助氏は、1982年8月15日にだした『比島従軍戦記 北部ルソンの死闘 戦没者の追悼と平和を祈念して』の「マンカヤン鉱山分哨」と題する小節に、つぎのように書いています。
     三井鉱山のこの街は社員住宅が整然と並んで、鉱山従業員の住民の家も多く都会地
    に来た感じがした。……
     マンカヤン警備隊本部は小さな兵営の感じで、炊事場や浴場等の設備もある兵舎で
    あった。私達の部隊は食料はなく……。
     鉱山の広大な設備と工場、そして幾十段もあるコンクリートの石段を下りると広い敷地
    には火薬庫がある。二階建の三井の事務所の一室が兵隊の控室で、交替で歩哨に朝
    まで警備した。……トロッコの採石は積載したまゝで操業はしていない。……
     警備隊本部からの糧秣の補給はない。原住民に話して芋掘りに連れて行った。……
     周囲を警戒しての芋泥棒だ。素早く掘らせて帰りの分哨地の入口で適当に彼等住民
    から芋を置かせた。……
     その日は帰りにバナナ畑で青い大きな幾重にもたわゝに成長したバナナを彼等にか
    つがせてきた。

                                         佐藤正人
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