三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「「ユートピア」とだまされ北送の在日同胞、真実糾明決定…北朝鮮に加え日本の責任も指摘」

2024年08月07日 | 国家・社会
「中央日報日本語版」 2024.08.07 16:46
■「ユートピア」とだまされ北送の在日同胞、真実糾明決定…北朝鮮に加え日本の責任も指摘

【写真】北朝鮮に向かう帰還船に乗っている在日同胞家族。1959~84年に「在日朝鮮人帰国事業」の名目で9万3340人が北朝鮮に行った[中央フォト]

 「在日同胞たちは『北朝鮮に行けば理想郷のように暮らせる』という話にだまされて帰還船に乗ったが、実状は天と地の差で目の前が真っ暗だったという」。
 真実・和解のための過去史整理委員会は7日、「北朝鮮は差別のない地上の楽園」という虚偽の宣伝にだまされて北朝鮮に帰還した在日同胞が北朝鮮政権から各種人権侵害にあったという事実を公式に認めてこのように明らかにした。彼らの被害事実を認めて真実糾明を決めながらだ。韓国政府レベルで北朝鮮に帰還した在日同胞に対する調査が行われたのは今回が初めてだ。

◇「25年間に9万人余りが帰還」
 真実和解委はこの日、「北朝鮮政権と在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は北送(帰還)事業を通じて1959年から1984年までの25年間に在日同胞9万3340人を帰還させた」と明らかにした。今回の真実糾明決定は帰還者17人の本人あるいは子孫が真実糾明を申し立てて行われた。真実和解委の真実糾明決定は帰還在日同胞に対する人権蹂躪(じゅうりん)があった点に対する「真実がすでに糾明された」という趣旨だ。
 真実和解委は研究リサーチなどを通じて当時作成された公文書、外交電文、関連書籍、論文などを分析した。その結果、帰還者の大部分は「差別なく働いた分だけ分配される」「理想郷のように暮らせる」「北朝鮮は日本より良い暮らしをし人権を保障される」という朝鮮総連の宣伝を信じて帰還船に乗ったことがわかった。しかし調査に応じたある真実糾明申し立て者は「北朝鮮に到着したら北朝鮮の実状は朝鮮総連の宣伝とは天と地の差で目の前が真っ暗になった」と話した。
 真実和解委の調査によると、帰還者と家族の大多数は首都平壌(ピョンヤン)ではなく両江道恵山(ヤンガンド・ヘサン)などの地方に配置され、地域内移動を監視された。日本に帰らせてほしいと要求して軍人に連れて行かれ行方不明になり5年後に精神病患者収監施設で目撃された少年の事例も調査過程で収集された。
 また、帰還者らは協同農場、鉱山、炭鉱の労働者として働かなければならなかった。「成分調査」を通じて敵対階層に分類され徹底した監視と差別を受けたという事実も調査過程で明らかになった。
 脱北を試みた帰還者らは保衛部に連行され、拷問を受け阿吾地(アオジ)炭鉱に追放されたりもした。また、帰還者家族でない相手と結婚しようとする場合には相手の家の強い反対を受けるなど各種差別に直面したという。

◇「日本、帰還を意図的に支援」
 真実和解委はこの日、帰還事業と関連し日本政府の責任も指摘して目を引いた。真実和解委は「北送事件の一次的な責任は北朝鮮政権と朝鮮総連にある」としながらも、「日本政府と日本赤十字社もまた、北送事業の実体を確認できたのに意図的に北送事業を支援し持続させ人権侵害を容認した」と明らかにした。また「国際赤十字委員会(ICRC)もやはり帰還協定に基づき北送過程がしっかり守られているのかの管理に積極的に臨まず、北送事業の仲介者と助言者としてその役割を果たさず傍観した」と批判した。
 これと関連し、転換期正義ワーキンググループのシン・ヒソク法律分析官は「冷戦時代にいわゆる自由陣営の一員という日本政府と日本赤十字社が自国に居住する在日同胞9万人が北朝鮮へ向かう状況を放置水準ではなく助長までしたのは日本としては黒歴史」と指摘した。その上で「北朝鮮も責任を否定し日本も表に出したくない問題に対し真実和解委が国家機関として初めて声を出した点で意味がある」と説明した。
  真実和解委は韓国政府に対しても「最後に北送が行われた1984年まで北送に反対し外交的な努力をしたが、結果的に阻止できなかった」と明らかにした。その上で北朝鮮の政権に向かって公式な謝罪を要求する一方、帰還者の生死確認と移動の自由を保障することを促した。また、国連には帰還事業をはじめとして帰還者と家族の被害や行方などに対する調査を要請し、その結果を歴史記録に反映することを勧告した。
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「関東大震災朝鮮人虐殺事件から99年目──僕たちは差別を止める側、弱者を助ける側に回れるのか?」

2024年08月07日 | 国民国家日本の侵略犯罪
 9月1日、約10万5000人の犠牲者を出した関東大震災から99年が経つ。震災直後のデマによって、多くの朝鮮の人たちが殺害された痛ましい事件、そして、いまも存在する差別について、在日コリアン3世であり、出入国在留管理局(入管)に収容されている人々の支援団体「Save Immigrants Osaka」のメンバーとして活動するチャ・ヨンジ(Jwa Yongjik)が考えた。

◆はじめに

 僕は在日コリアンが多く住む地域で日本の学校に通って育った。そのため、日本人の友だちもたくさんいたし、在日コリアンの友だちもたくさんいた。子どもの頃に差別を受けた記憶がない。そんなこともあってか、自分が朝鮮人であるということにあまり関心がなかった。どうでもいいことだった。どちらかというと貧しい家庭だったので、子どもに民族的な教育をする余裕がなかったのか、それとも、大人になって興味をもったときに自分で勉強すればいいと、親が思っていたのか、家庭で自らの歴史について教えられることもなかった。だから、在日コリアンが日本にいる歴史的な背景も、韓国籍と朝鮮籍の違いも、在日コリアンにたいする、外国人登録法に基づく強制的な指紋押捺制度も、在日コリアンが年金に加入できなかったことも、在日朝鮮人を韓国へ強制送還させるための「大村収容所」も、関東大震災時の朝鮮人の虐殺も、これらすべて、自らの歴史について、ひいては、日本の歴史について、ほとんど何も知らずに育った。

 そんな僕は、2013年に大阪と東京で起きたヘイトスピーチデモをきっかけとして、自らが朝鮮人であることや、在日コリアンの歴史自体に関心をもった。その後、「Save Immigrants Osaka」のメンバーとして、入管に収容されるほかの外国籍住民の支援をするようになる。かれらが日本で置かれた状況を見ると、過去に在日コリアンが経験した困難を同様に経験しているように思えた。日本の人たちが在日コリアン、そして日本の歴史についてしっかりと向き合っていれば、もっとマシな社会になっていたのではないか? 支援をしながらいつもそう思っている。
 9月1日で関東大震災から99年。震災時の朝鮮人の虐殺について、それをなかったこととして、政治の場やネット空間では歴史が捏造されている。だからいま、あらためて、その悲惨な歴史について書き記そうと思う。

【写真】関東大震災時に朝鮮人にたいして自警団が使った武器。写真:近現代PL/アフロ


◆流言蜚語によって失われた命

 いまから99年前、1923年の9月1日午前11時58分頃に、関東大地震が発生した。神奈川県といまの東京都を中心とする広範囲で、災害により全半壊、焼失、流失、埋没などの被害を受けた住宅は約37万棟、死者・行方不明者は10万5000人を超えた。いたるところで発生した火災による死者は全体の約9割を占める。火災は9月3日まで続き、旧東京市の4割あまりが焼失した。
メディアも通信手段も途絶した大混乱のなかで、さまざまな憶測が飛び交い、「朝鮮人が放火している」「朝鮮人が爆弾を持って襲ってくる」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というようなデマまで流れた。それを信じた人々が各地で自警団を結成し、そして軍や警察までもが、朝鮮人や中国人を虐殺した。~(参考資料)加藤直樹『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから、2014)~

 僕がこのことを知ったのは、9年前(2013年)の8月31日にSNSで始まった、あるプロジェクトがきっかけだった。この頃、僕の生まれ育った大阪の鶴橋は、在日コリアンが多く生活していることから差別主義者の標的となり、ヘイトスピーチを垂れ流すデモや街宣が頻繁に行われていた。その度に「朝鮮人帰れ」「朝鮮人死ね」「朝鮮人殺せ」「ゴキブリ朝鮮人」という、聞くに堪えない言葉が鶴橋に響き渡っていた。差別主義者たちが楽しそうにニヤニヤしながら吐き出すヘイトスピーチを聞いた後は、胸焼けのような気持ち悪い感じがしばらく抜けなかったのを覚えている。

 そんな時に始まったのが、「9月、東京の路上で」というブログによる「関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺から90年。記憶・追悼・未来のために~知らせ隊『相思華』プロジェクト。」だった。その頃、鶴橋と同様に、東京・新大久保に住む人々も差別主義者の標的にされていた。かれらにたいするヘイトスピーチに抗議していた人たちが、このプロジェクトを立ち上げたのだ。8月31日の最初の投稿には、「このブログの趣旨と『読みかた』」というタイトルで、以下のような文章が書き記されていた。

―――
みなさん、こんにちは。「民族差別(レイシズム)への抗議行動・知らせ隊」です。
このブログは、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺について、当時の証言や記録を、 90年前と同じ日の同じ時刻に掲載し、虐殺や暴行があった現場の現在の姿をとらえた写真をあわせて掲載していくというものです。9月第1週は毎日、とくに最初の数日は日に複数回、記事を掲載していく予定です。その上で、9月末までにはブログ更新を停止します。

 9月、東京の路上で 関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺から90年。記憶・追悼・未来のために~知らせ隊「相思華」プロジェクト。 http://tokyo1923-2013.blogspot.com
―――

 それを読んだ僕は、「朝鮮人虐殺?? なにそれ??」というのが最初の感想だったけれど、翌日以降、虐殺のあった日時に合わせて投稿される記事に、しばらく言葉を失った。当時のデマは、いまでもネット上で垂れ流され、放置されている内容、とくに事件や災害があった際に書き込まれるそれとほとんど同じものだった。
 ヘイトスピーチデモに参加する人たちが、災害時に朝鮮人を襲った人々と重なり、僕の目には、自警団の予行演習のように見えた。2010年代初頭、新大久保で勢いがあったレイシストたちは、「お散歩」と称して韓国系のお店に嫌がらせをし、その様子をネットで配信していた。店員を罵り、看板を蹴飛ばすなどやりたい放題。そして、警察もそれを止めなかった。ヘイトスピーチに抗議をする人が現れると、血相を変えて襲いかかってきた。僕も、抗議のときに何度か、目の前まで突っかかってこられたことがある。

【写真】震災で倒壊した横浜・山下の外国人居留地。Culture Club/Getty Images
 Culture Club/Getty Images


◆命を守ってもらえる保証はない

 震災当時、一般市民のみならず、行政機関や新聞さえもデマを信じ、根拠もなくそれをひろめていた。警察や軍も加担して、虐殺を行っていたことは衝撃的な事実だ。(参考資料)参議院・質問主意書https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/190/syuh/s190131.htm 

 2000年には、当時の東京都知事であった石原慎太郎が、「不法入国した三国人、外国人の凶悪な犯罪が繰り返されており、震災が起きたら騒擾事件が予想される。警察には限度があり、陸上自衛隊に災害でなく治安の維持も遂行してもらいたい」と発言したらしい。それも、震災当時の状況と重なって見えた。21世紀に入ってもなお、そしていまでも、この国で何かあったときに命を守ってもらえる保証はないんだと思った。

 関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺から99年が経ったいま、社会はどう変わったのか。9年前に新大久保や鶴橋を中心に全国各地で行われていたヘイトスピーチデモは、市民による抗議の声が大きくなったこともあって、デモ自体も参加者の数も激減した。刑罰がなく抑止力は限定的とはいえ、ヘイトスピーチ解消法が施行され、大阪、東京、神奈川の川崎と、ヘイトスピーチを防止・禁止するための条例を定める自治体も出てきた。
 でも、安心してはいられない。1974年より、毎年9月1日には、関東大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式典が東京・墨田区の横網町公園で催されている。毎年、歴代の都知事が追悼文を送ってきたのだが、2016年に東京都知事に就任した小池百合子は、就任の翌年から、追悼文の送付をやめてしまっているからだ。(参考資料)毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20220830/ddl/k13/040/003000c

 追悼式典の横で差別主義者が虐殺の歴史を否定する集会を開き、ふたたびヘイトスピーチを垂れ流すようになった。2017年には、当時、副総理兼財務相だった麻生太郎が、講演で北朝鮮有事により朝鮮半島から大量の難民が日本に押し寄せる可能性に触れ、「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」(9月23日、栃木県宇都宮市内での講演)と発言をした。

 また、文部科学省は「国民からの理解が得られない」という理由で、朝鮮学校を高校無償化制度から除外したまま、それが許容されている。2021年には、在日韓国・朝鮮人が生活する京都のウトロ地区で、差別感情を動機とした放火事件も起こり、倉庫や住宅など7棟が全半焼した。インターネットを開くと相変わらず酷いヘイトスピーチが野放しにされているし、事件や災害がある度にその量が増えている。
朝鮮人にたいする流言への注意書き。写真:近現代PL/アフロ
 

◆いまも続く、可視化されない虐殺

 僕はというと、入管で起こる酷い事件をきっかけにして、在留資格をもたない外国籍住民の置かれている状況を知り、2018年から、その支援や改善のためのアクションを細々とやっている。入管の収容施設で極限まで自由を奪われる人たち、たびたび起こる死亡事件、そして、仮放免許可を受けて外に出られたものの、働くことも健康保険に加入することも許されず苦しむ人たちを見ていると、みんなの見えないところで、可視化されない虐殺がいまだに続いているようにも感じる。
 関東大震災の当時は、道行く人に「15円50銭と言ってみろ」「ガギグゲゴと言ってみろ」などと詰問し、それを正しく発音できない朝鮮人や中国人を選別して、虐殺を行っていたという。~(参考資料)西崎雅夫『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』(現代書館、2016)~

 そういう意味では、日本で生まれ育ち、母語が日本語である3世の在日コリアンである僕を、日本人と見分けることは難しい。となると、見た目や発音で見分けがつきやすい、ほかの外国籍住民の方が心配だ。自分が被害にあうことを想像するよりも、何かあった時に差別を止める側に、助ける側に回れるだろうか、と想像するようになった。
 災害において、差別や偏見が原因で命を奪われたのは外国人だけではない。関東大震災で虐殺された人のなかには、聴覚障害者や吃音症の人、地方出身者、被差別部落出身者など、発音や方言により、朝鮮人や中国人に間違われて殺された日本人がいたことも忘れてはいけない。~(参考資料)『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』、「手話で語る『関東大震災とろうあ者』」https://ameblo.jp/bcs33/entry-12517699880.html、「香川人権研究所」http://kagawa-jinken.org/publics/index/72/~

 同様のケースはほかにもある。1934年9月21日、京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした室戸台風。死者2702人と行方不明者334人を出したこの台風で亡くなった人々のなかには、大阪市西淀川区にあったハンセン病療養所「外島保養院」にいた人たちが含まれていたことを忘れてはいけないと思う。
当時は「らい病」と呼ばれていた、感染力が弱く、完治可能な感染症であるハンセン病。日本では、20世紀を通して、その患者に対して終身強制隔離・患者絶滅政策がとられ、優生手術(断種手術)まで行われていた。そもそもそれ自体がとんでもない話なのだけれど、1級河川の河口、海抜ゼロメートルに建てられた外島保養院は、移転計画がもち上がるたびに移転先の地元住民からの反対で移転を断念せざるを得なくなり、ついには室戸台風の直撃で被害にあった。入所者597名のうち、その約3割にあたる173名と、職員3名、職員家族11名、工事関係者9名の計196名が亡くなった(西淀川区内の死者・行方不明者は248名で、その8割近くが外島保養院の犠牲者だ)。災害の後も、病気への偏見や差別は根強く、反対運動により大阪で再建ができなかったという。(参考資料)ハンセン病制圧活動サイト https://leprosy.jp/people/plus10/

【写真】2017年7月16日に行われた、在日コリアンへの憎悪をあおるヘイトスピーチデモにたいして抗議をする市民たち。写真:Richard Atrero de Guzman/NurPhoto via Getty Images
 
 99年前に起きた関東大震災時の朝鮮人・中国人の虐殺では、虐殺を止める側、弱者を助ける側に回った日本人もいた。朝鮮人を警察に保護させようと警察署までかれらを囲うようにして付き添った人たち、自警団に引き渡すのを拒み、ともに生活する朝鮮人をかくまった村人、下宿屋、工場経営者、警察署長などだ。また、いまから9年前、ヘイトスピーチデモを抑え込んだのは、人種差別に危機感を抱いた市民たちの抗議の声だった。
 歴史から学ぶことはたくさんある。来年は関東大震災時の朝鮮人・中国人の虐殺から100年を迎える。ヘイトスピーチを放置したその先に何が待っているのか、それを止めるために何ができるのか。自分たちで考えて、一人ひとり、できる範囲で実行してほしいと思う。

◆PROFILE
 Jwa Yongjikチャ・ヨンジ
 在日朝鮮人3世。市民団体「Save Immigrants Osaka」の有志として、入管行政の改善要求、や大阪入管に収容されている人たちや仮放免者を支援する活動を行っている。過去には在日コリアンにまつわるトピックを取り扱う文章の執筆や、イベントの主催を行った。
 文・チャ・ヨンジ
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