三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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関東大震災虐殺後に遺された家族の歴史を映画に込める

2024年08月04日 | 国民国家日本の侵略犯罪
「The Hankyoreh」 2015-09-29 17:17
■[インタビュー]関東大震災虐殺後に遺された家族の歴史を映画に込める
 3作目の映画を作る呉充功監督

【写真】呉充功監督 =キル・ユンヒョン特派員//ハンギョレ新聞社

 「来年には必ず完成させたい。財政問題もあって難しいが、やらなければ」。韓国ではあまり知られていないが、関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺問題に関心がある人ならば、呉充功(オ・チュンゴン)監督(59)の名は決して忘れられない。彼が30年以上前に作った二本のドキュメンタリー映画『隠された爪跡-関東大震災と朝鮮人虐殺』(1983)と『払い下げられた朝鮮人-関東大震災と習志野収容所』(1986)は、1923年の関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺を、当時加害と被害の側に立った生存者の証言を通じて再構成している。 当時の大虐殺を90余年前に発生した偶発的事件程度として記憶している多くの韓国人は、映画を見た後に押し寄せてくる衝撃に当惑し耐えらえれなくなる。
 在日朝鮮人2世の呉充功監督は、朝鮮人虐殺に関連した二本の問題映画を出した後、30年余り映画の世界から離れていた。33歳で結婚した後、茨城県にある父親の会社を経営し生業に従事してきたためだ。

 83年『隠された…』 86年『払い下げられた…』
 関東大震災朝鮮人虐殺記録映画2本を作り
 30年ぶりの映画 その後を扱った作品製作
 「東日本大震災と嫌韓熱風を見て
 今日までに真相究明のためにどんな努力が
 なされたかを込めたいと思った」

 4年前の2011年3月、東日本大震災が起きた。呉充功監督は関東大震災研究で名高い在日史学者の姜徳相(カン・ドクサン)先生(在日韓人歴史資料館館長、83)から連絡を受ける。彼は呉充功監督に「2作目の映画を撮った後30年間に起きた変化をもう一度記録として残す必要があるのではないか。このまま止めれば呉充功監督は未完成で終わってしまった」と話した。
 「その話を聞いて悩みに悩んだ」当時、地震被害によって複雑な状況に置かれていた呉充功監督は、長い悩みの末に3作目の映画を作ることを決意する。当時、日本社会で少しずつ吹き始めた“ヘイトスピーチ”等の嫌韓熱風も彼の決心に少なからぬ影響を与えた。
 呉充功監督は「新しい映画では、1923年9月1日に関東大震災が発生した後、2015年までにこの死を巡ってどんなことが起きて、真相究明のためにどんな努力が続けられたのか、歴史全体を扱う予定」と話した。大地震が発生した後に日本に来て、初めての真相究明活動をした故崔承萬(チェ・スンマン、1897~1984)から、その後に関連研究を進めてきた研究者の姜徳相、故琴秉洞(クム・ビョンドン)、山田昭次(85)、そして地域で着実に真相究明運動をしてきた日本の草の根団体と韓国の遺族たちの経過を盛り込む予定だ。 映画のタイトルはひとまず「遺族と遺骨はどこに」に決めた。呉充功監督の新作に関心が集中する理由の一つは、彼の前作が成し遂げた優れた成就のためだ。
 呉充功監督の初めての映画である『隠された爪跡』は、1923年の大虐殺の時にかろうじて生き残った在日朝鮮人チョ・インスン(1902~1984)老人の事情を軸に、事件を直接目撃した20人余の証言を集めた作品だ。 この映画は最初は彼が通っていた横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)の卒業作品として企画された。「関東大震災の時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」が1982年9月に東京荒川辺の旧四つ木橋付近で起きた虐殺犠牲者の遺骨を発掘するという消息を聞いた呉充功監督は、カメラを持って発掘現場で駆け付けた。
 映画の主人公であるチョ老人は、1923年2月に慶尚南道居昌(コチャン)から日本に渡って来た後、あちこちを転々として建設現場で日雇い労働者として働いた。地震が起きた日は現在の東京押上付近の工事現場にいたチョ老人一行は、避難して四つ木橋付近で消防団に捕らえられた。以後、チョ老人は自警団、日本民衆、警察などから攻撃を受けからがら助かった。2作目の作品である『払い下げされた朝鮮人』では、チョ老人が収容されていた千葉県の“習志野収容所”で、当時の日本軍が周辺の村人たちに朝鮮人を虐殺するとして“払い下げ”した事件を扱った作品だ。 「日本人も日本政府も、自分がやったことはやったとはっきり話さなければならない!」(チョ・インスン) 、「村の人々が「長くは生きられないだろう。どのように死にたいか」と(縛られてきた朝鮮人に)尋ねた」(虐殺に加担した村の住民、君塚氏)。呉充功監督が記録していなければそのまま消えてしまった被害者と加害者の生き生きした証言が残って、当時の惨状を私たちに伝える。 特に加害者である君塚氏がカメラを前に自身の加害経験を告白した長い証言は、この映画の白眉だ。
 以後、30年余りの間に韓国と日本の市民の努力で多くの変化が起きた。彼の初めての映画の背景になった東京荒川辺の虐殺現場には、2009年に日本政府と民衆の責任に明確に言及した追悼費が建設され、2作目の映画の背景である習志野では無惨に虐殺された朝鮮人のものと推定される遺骨6体が発掘された。 以後、韓国の遺族たちがあちこちで確認されている。呉充功監督は韓国の遺族たちに会うために昨年は済州島(チェジュド)、先月は慶尚南道咸安(ハマン)を訪ねた。 彼は「犠牲者の後には遺された家族がいる。そのような歴史を映画に多く盛り込みたい」と話した。
 呉充功監督は当時の朝鮮人虐殺事件の真相究明が難しいのは、「加害の主体が日本軍や警察ではなく日本の民衆自身であるため」と話した。 真実を隠そうとする地域社会の無言の圧力は今でも続いている。
 「日本の人々が再びこうしたことを繰り返さないようにするためには、加害者と被害者が同時に歴史を認識しなければなりません。しかしそのような共同作業にはまだ道が遠いようです。当時、虐殺に民衆が直接加担したという傷が深いということでしょう」。
東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2015-09-23 18:43


「The Hankyoreh」 2015-09-02 06:51
■[記者手帳]関東大震災から92年…虐殺された朝鮮人追悼碑に“主語”がない
 虐殺主体が曖昧な慰霊碑の前で
 在日同胞・日本市民400人余が献花

【写真】東京墨田区の横網町公園で1日午後に開かれた「関東大震災92周年朝鮮人犠牲者追悼式」で在日韓国朝鮮人と日本市民が朝鮮人犠牲者追悼碑に献花している。同公園は関東大震災が起きた日、3万8000人余が火災で犠牲になった悲劇の場所だ =キル・ユンヒョン特派員//ハンギョレ新聞社

 日本市民社会、他民族蔑視を警戒
 「92年前の過ちを繰り返してはならない」
 「この碑文を一度読んでみてください。主語がないでしょ?」
 
 1923年に発生した関東大震災92周年をむかえた1日午後1時、イ・イルマン東京朝鮮人強制連行真相調査団事務局長が東京墨田区の横網町公園に立っている朝鮮人犠牲者追悼碑の碑文を指さした。彼の説明に従い碑を見ると、「追悼」という大きな文字の下に「この歴史 永遠に忘れず 在日朝鮮人と固く 手を握り 日朝親善 アジア平和を打ちたてん」という碑文が目についた。 公園側では92年前の関東大震災が発生した時刻の午前11時58分44秒に合わせ、当時犠牲になった霊魂の冥福を祈る鐘を鳴らした。
 イ事務局長は「この碑が作られたのは関東大震災から50年が過ぎた1973年だった。当時、日本人たちがこのような碑を作ったことはすごいことだったが、92年前の関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺を起こした主体が誰だったのか分からないようになっている。 92年前の虐殺のように、他の民族を差別し排除する流れがヘイトスピーチ(嫌韓デモ)等に現れているように、現在の日本社会につながっている」と話した。 1日、この碑の前で開かれた「関東大震災92周年朝鮮人犠牲者追悼式」では「ウルミテソン鳳仙花」の悲しいBGMが流れる中で総連系の在日韓国朝鮮人と日本市民400人余が当時亡くなった人々のために黙祷と献花を行った。
 最近日本社会でヘイトスピーチなど他民族を差別し蔑視する排外的な流れに対する警戒心が高まり、関東大震災時に発生した朝鮮人虐殺に対する社会的関心も強まっている。 日本の若い世代の間では2014年3月にフリージャーナリスト加藤直樹氏が書いた『九月、東京の路上で』という本が話題になり、関東大震災の時に発生した朝鮮人虐殺に対する関心が高まった。 加藤氏はこの本を執筆した理由について「不逞鮮人という文字を嫌韓デモのプラカードで見た瞬間、関東大震災当時に発生した朝鮮人虐殺が思い出されて恐怖を感じた。人種主義者らの『(朝鮮人を)殺せ』という叫び声が90年前の東京の路上に鳴り響いた『殺せ』という叫びと共鳴している」と指摘した。 ヘイトスピーチを阻止するための“対抗行動”に参加している日本の若者たちは「日本社会がこのまま進めば92年前と同じ過ちを繰り返しかねない」と話す。

【写真】1923年関東大震災当時の惨状=資料写真//ハンギョレ新聞社

 日本社会で“消えた主語”を探す作業は、その間に着実に進行していた。 日本弁護士連合会は2003年8月、「国家は当時起きた虐殺に対する真相究明を行い、虐殺被害者・遺族に対して責任を認め謝罪しなければならない」という勧告を出したことがある。 2009年には虐殺現場である墨田川周辺の八広駅付近に日本軍・警と市民の責任を明確にした最初の追悼碑も立てられた。
 しかし、日本政府は市民社会のこのような努力に逆行する姿を見せている。 日本の文部科学省は今年4月、中学校教科書検定で「軍隊、警察、自警団によって殺害された朝鮮人の数は数千名に達した」という記述を、「自警団によって虐殺された朝鮮人に対して当時司法省は230人程度と発表した。殺害された人々が数千名に達するという話もあるが、犠牲者の数には定説がない」という内容に直させた。 少なくとも6000人が亡くなったことが分かった朝鮮人犠牲者の数を縮小しているわけだ。
 この日の追悼行事に参加した芦沢一明・渋谷区議会議員(民主党)は、92年前に発生した朝鮮人虐殺事件は「日本人の差別意識と排外主義の根の深さを示すものだ。日本は長期にわたり事実を隠してきたが、新しい未来を作るためには過去を直視し正しく記憶すると共に、歴史と真剣に向き合わなければならない」と話した。
東京/文・写真 キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2015-09-01 20:12


「聯合ニュース」 2021.11.28 11:18
■関東大震災時の朝鮮人虐殺 犠牲者の名誉回復促す「人権セミナー」開催へ
【ソウル聯合ニュース】在日本大韓民国民団(民団)と在日法曹フォーラムが、関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺事件を隠蔽しようとする歴史修正主義の過ちを批判し、犠牲者の名誉回復を促す「第3回人権セミナー」を12月4日に東京・港区の韓国中央会館で開催する。

第3回人権セミナーが12月4日に東京の韓国中央会館で開かれる(民団提供)=(聯合ニュース)≪転載・転用禁止≫
 関東大震災は1923年9月1日に関東地域で発生。10万人以上の死者・行方不明者が出た。震災の混乱の中、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が放火した」などのデマが流れ、自警団や警察、軍人らが在日朝鮮人を虐殺した。大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」の記録によると、当時、虐殺された朝鮮人犠牲者は6661人とされる。
 セミナーでは、映画監督の呉充功(オ・チュンゴン)氏が「関東大震災朝鮮人虐殺犠牲者の遺族を韓国各地に訪ね歩いて10年」をテーマに発表を行い、犠牲者の遺族の記憶と傷について伝える。
 また、日朝協会埼玉県連合会会長の関原正裕氏が「埼玉の自警団事件における国家の責任」をテーマに、千葉、追悼・調査実行委員会の平形千恵子氏が「『くれるから取りに来い』―何がおこなわれたのか千葉県における関東大震災時の朝鮮人虐殺事件」をテーマにそれぞれ発表を行う。
 民団人権擁護委員会の関係者は「当時、朝鮮人虐殺が実際にあったことは日本の内閣府フェブサイトの防災情報のページにも掲載されている。これをなかったことにしようとする歴史修正主義が最近広まり、小中高校の歴史教科書から虐殺の内容が削除される傾向にあり残念だ」とし、「このままでは日本社会が朝鮮人虐殺が起きた98年前と何ら変わらないのではないかという思いから警鐘を鳴らすためセミナーを開催することになった」と説明した。


「中央日報日本語版」 2024.08.05 06:34
■「関東大虐殺」「朝鮮人女工」…日帝から受けた虐殺・差別の記録
 光復節(8月15日)を目前に控え、日帝強占期の朝鮮人が受けた残酷な現実に光を当てたドキュメンタリー映画2本が公開される。
 15日に公開されるドキュメンタリー『1923関東大虐殺』は1923年日本関東地方で発生した大地震の時に現地の朝鮮人を対象に行われた虐殺に光を当てた作品だ。当時「朝鮮人が井戸に毒を入れて放火した」というデマのために朝鮮人が集団的憤怒のターゲットとなり、日本の軍警や民間人によって虐殺された。犠牲者数は6000人余りと推算されているが、2万人を超えるという主張もある。
 日本の一部からは朝鮮人虐殺を認めて責任を負わなければならないという声が出ているが、日本政府はこれを拒否している。キム・テヨン-チェ・ギュソク監督は写真や動画、文書、証言などを基づいて虐殺の真実を追跡する。日本市民団体「ほうせんか」、鳩山由紀夫元首相ら日本の良心的政治家や知識人のインタビューも入っている。
 7日に公開されるドキュメンタリー『朝鮮人女工の歌』は日帝強占期に大阪の紡績工場で働いた朝鮮人女性労働者の苦痛と哀歓を扱っている。いつもお腹をすかせていた彼女たちは日本人が捨てた牛・豚の内蔵(日本語で「ホルモン」)を焼いて食べていたので「朝鮮ブタ」といわれて蔑視されていた。だが、彼女たちは毅然と耐えて、劣悪な労働条件と差別に対抗して集団行動に出たりもした。
 イ・ウォンシク監督は朝鮮人女工生存者の証言や写真、記録を通じて悲惨だった当時の現実を掘り起こしながらも部分的に劇映画形式を導入して当時女工がどのように生きていたかを描き出す。カン・ハナら在日同胞の俳優が出演して、当時朝鮮人女工が歌ったという歌も再現する。


「中央日報日本語版」 2024.06.03 10:52
「関東大震災朝鮮人虐殺、日本政府の謝罪が両国関係の第一歩

【写真】先月24日、参議院議員会館の執務室で中央日報のインタビューに応じた立憲民主党所属の杉尾秀哉議員 チョン・ウォンソク特派員

 関東大震災から今年で101年。「朝鮮人が井戸に毒をまいた」というデマが広まって6000人以上の朝鮮人が死亡したが、「事実関係を把握できない」という立場に固執する日本政府に対し、正確な調査と誠意のある謝罪を求めている日本の議員がいる。日本民間放送TBSの元アンカーで野党第一党・立憲民主党所属の杉尾秀哉議員(66)だ。
 杉尾氏は13日、参議院議員会館で開かれたドキュメンタリー映画『1923関東大虐殺』(キム・テヨン監督)の特別上映会を支援した。昨年11月には対政府質問で「公文書ごとに朝鮮人死亡者数が異なり確認が不可能」と主張する政府関係者を叱咤し、真相調査を要求した。
 先月24日に東京千代田区の参議院議員会館で会った杉尾氏は中央日報に「慰安婦や教科書問題で両国関係に何度もブレーキがかかる状況が残念で動き出した」と述べた。インタビューで杉尾氏は両国に言及するたびに「日韓、韓日」という言葉を繰り返した。

--日本が謝罪すべきだと主張するのには勇気が必要だったと思うが。
 右翼側の人たちから時々、脅迫的な言葉を聞くが、恐れることはない。真実に向き合うだけだ。本当に日韓関係、韓日関係がよければいい。未来に向かって進むためには過去に誠意のある姿勢で向き合わなければいけない。(両国関係は)今はのどに刺さった魚の骨のような関係だ。以前の状況を打開できないため問題がふくらむたびに韓日、日韓関係が冷え込んでしまう。私も何かできることをしたいと思った。

--ヴィリー・ブラント元西ドイツ首相は1970年、ポーランドのユダヤ人追悼碑の前で涙を流しながらひざまずいた。日本でもこのような謝罪が可能だろうか。
 関東大震災当時、東京隅田川沿いで当時多くの人たちが殺害された。朝鮮人犠牲者追悼碑も建てられているので首相が行って花を供え、謝罪のメッセージを出せばよいのではと考える。しかし今の日本政府が謝罪する可能性は低い。安倍元首相当時から右翼が自民党の「コア(核心)」支持勢力に定着した。この人たちは首相が強く行動することを望み、首相も過去の問題などで韓国に強い態度を見せてこそ支持層にアピールできると考える。岸田文雄首相も過去の問題に対する右翼の主張が広まっても触れたくないというような事情があるのだろう。

--日本の社会と政治の右傾化はどれほど深刻なのか。
 過去に植民地支配をしたという事実くらいはみんなが知っている。しかし右翼が声を高める「歴史修正主義」がソーシャルメディアを通して広まっている。あった事実もそうでないと、間違っていると話す人たちの声が高まっている。そのような人たちだけが騒いでいるのだ。日本は政権交代が起きない。したがって前政権でしたことを否定することはできない。「間違っていた、我々はこのようにする」と話せない。間違っていてもそのまま継承することが今の日本政治の根本的な問題につながった。

--昨年の対政府質問で政府の謝罪を求めたが、反応は。
 特に効果はなかった(笑)。なぜなら日本メディアでも扱わない。当時、東京新聞だけが「100年ぶり」として大きく扱い、朝日新聞は小さく扱った。それ以外は一切書かなかった。問題はメディアだ。日本の新聞は過去の問題で政府に批判的な声を出すことができない。

--なぜそうなのか。
 安倍政権を経て保守性向のメディアの影響力が強まった。そして社会全般的な雰囲気も、必ずしも右翼でなくともこうした過去の問題は今とは関係のない「昔の話」として済ませる傾向が強まった。メディアも同じだ。

--両国関係に改善の余地はないか。
 カギを握っているのは結局、国民、民衆だ。両国国民の関心と好感はいつよりも高まっている。私より私の妻の方が韓国をはるかによく知っている。K-POPや韓国ドラマは若い層で大きな呼応を得ている。日本人は大久保で韓国文化を経験し、韓国料理を食べる。「国民レベル」の相互理解が行われているのだ。韓国からも多くの人たちが日本へ観光に来ている。

--両国の国民は相手の文化に関心があるが、政治問題で歪んだりする。
 「国民が互いに理解して好感を持つとしても、結局は為政者らがつぶす。日本と韓国はいま対立している場合ではない。韓国と日本は共に米国と中国という巨大両国の間に挟まれている。北朝鮮問題も常に障害だ。中国は相手にするのが難しい国になった。このように両国が挟まれた状況で韓国と日本が互いに反目するのは役に立たない。むしろ経済や文化、さまざまな側面で両国の協力が国益に役に立つ。

◆杉尾秀哉議員=1957年に福岡北九州市で生まれ、東京大社会学科を卒業してTBSに入社。ニュースアンカーを務めるなど36年間メディアで勤務して2015年に退社した。2016年に参議院に当選して政治に入門した。選挙区は長野県。昨年11月の参議院災害対策特別委員会で日本政府関係者が「国会図書館で確認される公文書では死亡者数が異なり、虐殺事実について確認が不可能」と話すと、杉尾氏は「(被害)人数を確定できないため(虐殺事実を)確認できない、そのように言えば公文書管理制度が成立するのか」とし、真相調査を要求した。
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