「韓国経済新聞/中央日報日本語版」 2024.08.11 13:23
■日章旗に覆われてはならない「記録の男」孫基禎
パリ五輪の男子マラソンは10日午後にスタートする。88年前は1日前にスタートした。1936年ベルリン五輪。韓国人のだれもが知っているように、植民地朝鮮の青年孫基禎(ソン・ギジョン)がトップでオリンピアシュタディオンのゴールを通過した。2時間29分19秒、五輪最高記録だった。最後の区間はスプリンターのような途轍もないスピードで疾走した。だが青年の表情は明るくなかった。
◇当時の気温30度? 公式記録は21度
オリンピアシュタディオンの西側にある聖火台の後壁には種目別の優勝者の名前が刻まれている。「MARATHONLAUF 42195m SON JAPAN」。1970年8月15日、当時国会議員だった朴永禄(パク・ヨンロク)氏がはしごをかけて上り、「JAPAN」を削り「KOREA」に変えた。5時間かかったという。だが国際オリンピック委員会(IOC)と西ドイツ政府はすぐ「JAPAN」に直した。今後も孫基禎の国籍を韓国に変えるのは容易ではないだろう。
2012年7月、筆者はベルリンを訪問し五輪のマラソン区間を調査しスポーツ博物館とオリンピアシュタディオンを訪問した。スポーツ博物館の学芸員の助けを受けて検索した資料を分析し、「韓国体育史学会誌」に論文を載せた。内容は少なくない。ただ7月19日にスポーツ博物館のドアを開けて入った時の驚きを覚えている。
ドアを開けるとすぐ孫基禎の写真が見えた。ジェシー・オーエンスの写真はその後ろにあった。学芸員は写真説明を示した。「Kee Chung Sohn(Kitei Son)」。 学芸員は「われわれは1989年から彼の名前を韓国式に表記してきた。国籍は変えられない」とした。筆者は孫基禎という名前が巨大な断層の真ん中にあることを改めて感じた。韓国と日本、勝利と悲哀。
「孫基禎は韓国人初の五輪金メダリストだ。彼は1936年のベルリン五輪のマラソンで2時間30分の壁を突破し五輪新記録を樹立して金メダルを取った。そして日本帝国主義の強占統治の下に置かれた同胞の鬱憤をぬぐう一方民族意識を改めて鼓吹させた」。
私たちはここまで知っている。外から見る視角も大きく異ならない。外国の研究者のうち相当数は1988年のソウル五輪を契機に孫基禎に注目した。2004年に論文「孫基禎とスピリドン・ルイス、1936年ベルリン五輪マラソンの政治的局面」を発表したカルル・レナルツが代表的だ。彼は1936年にマラソン表彰台で頭を下げた若い勝利者と1988年ソウル五輪開会式で白髪の高齢者が聖火を持って踊るように走る場面を劇的に対比させた。
孫基禎の名前はいつも鮮明な断層の中に姿を現わす。その淵源は長い。孫基禎が優勝した後、日本の読売新聞は8月10日に号外を発行し臨時特派員として派遣した西條八十の詩を掲載する。題名は「我等の英雄!弾丸の如く躍り出た小男」だ。このように終わる。
「誰れか、今日のこの勝利を期待しただろう/踊れ!起て!歌へ!日本人!/日本は見せた/けふ明瞭り(はっきり)みせた/この小男孫のなかに/世界を指導する、躍進日本の勇ましい現在の姿を」。
半島では詩人の沈熏(シム・フン)が8月11日付の朝鮮中央日報に「おぉ、朝鮮の男児よ!-マラソンに優勝した孫・南の両君に」を載せた。詩人は絶叫する。
「おぉ、私は叫びたい! マイクを握って/全世界の人類に向かって叫びたい!/これでも君たちはわれわれを弱い民族だと呼ぶのか!」
このように鮮明な対照は孫基禎の運命であろう。そのため彼の頭の中の真ん中を民族の境界と運命の等高線が横切る。孫基禎はベルリンでだれも自身が韓国人であることを知らないだろうと懸念したようだ。そこで機会があるたびに自身が韓国人であることを示そうと努力しただろう。だれかサインをくれと言えばハングルで名前を書き韓半島(朝鮮半島)の地図を描き、サインとともにKOREANと書く形で。
残念なことだが残っている資料は1936年にベルリンで孫基禎が韓国人という事実は秘密ではないということを示してくれる。陸上専門紙は孫基禎が京城(現ソウル)の養正高等普通学校出身という日本の関係者の話を引用して報道した。日本人を意識してのことかもしれないが、孫基禎は自身に対して積極的に説明しない。選手村情報誌は孫基禎が「とても寡黙で10分に一度やっと話をするほどだった。彼は故郷であるKoreaで訓練した内容について話した」と書いた。
このように鮮明な断層の向かい側に忘却が座を占めている。五輪精神に照らして最も高貴な価値かもしれない勝利者に対する尊重と崇拝を見つけることができないのだ。孫基禎は世界最高記録保有者としてベルリンに行き、五輪新記録打ち立てて金メダルを獲得した。彼が立てた記録の価値、世界最高のマラソンランナーが受けて当然な名誉を「植民地青年の悲哀」と「日本はまだ孫基禎が日本人であるかのように紹介している」という韓国人の憤怒の向かい側のどこから見つけるべきか。優れたマラソンランナー孫基禎の実際の競技内容と関連した情報すら悲哀と憤怒の次元を抜け出すことができない。その結果、時には伝説が、時には確認できない誇張と歪曲が事実かのように流通する。例を挙げてみよう。
多くの韓国国内文献はマラソン競技が開かれた1936年8月9日にベルリンが「30度を超える高温」に湿度が高かったと記録した。「北海から熱風が吹いてきた」という記述もみられる。ベルリン五輪の公式記録は違う。気温は競技が始まった午後3時ごろに22.8度、終わった時は21.0度であり、空は晴れ大気は乾燥していた。30度は真夏の暑さを象徴する温度だ。マラソン競技が苛酷な暑さの中で開かれたという前提は優勝者孫基禎の英雄イメージを強化し彼が収めた勝利の意味を固めるのに寄与しただろう。
◇サインは必ずハングルで書き韓半島描く
孫基禎は走る間に水を全く飲まなかったという。彼は自叙伝に「ビスマルクの丘を上がると看護婦が水を勧め、口を一度ゆすいで吐いた」と記録した。しかし写真資料は孫基禎が少なくとも2地点で水を供給されたことを示している。まず看護師が渡したコップを口に当てる写真が1枚ある。この写真は孫基禎の自叙伝にも掲載された。五輪公式記録645ページには日本人関係者が渡した水を飲む(ような)写真がある。39キロメートル地点で撮影されたという。水を飲まずに42.195キロメートルを走った超人的意志を強調するにはマラソン中に水を飲んではならないという古い常識も作用した。
筆者は何年か前に尊敬する仲間と話しながら孫基禎を「歴史的意味」の枠組みから抜け出し自然科学の側面から研究する価値がある点に共感した。こうした考えを交わした。孫基禎が走る姿はレニ・リーフェンシュタールの映画『オリンピア』など動画が存在する。1937年5月に孫基禎がセブランスで心拍数、血圧、肺活量、心臓構造などを測定した身体検査記録が残っている。AIをはじめとする最近の技術を使えば孫基禎の体格と走法などを分析し、彼が到達できた記録の最大値、現代マラソンに適用すべき特長点を抽出してみることはできないだろうか。
孫基禎という名前は彼が死去した後も忘却と悲哀、憤怒という名前で世界の片隅に残っている。ある所で忘却の深淵は1936年8月よりいまがより深い。筆者は4年前の夏休みにドイツのリューデスハイムを訪問し、路地にあるカフェに入って昼食を食べた。そこで長く土産物店をやってきた韓国僑民から聞いた逸話だ。1981年10月に孫基禎がその店に立ち寄ったが、だれも気付かなかった。同行した僑民1人がドイツ人に尋ねた。
「1936年のベルリン五輪のマラソンでだれが優勝したか知っているか」。
ひとりが叫んだ。
「日本人(Japaner)!」。
僑民は「韓国人」と正した後、「その方がここに来られた」と紹介した。雷のような満場の拍手が起こった。憂鬱なエピソードの最後が拍手で締めくくられたのはそれでも幸いなことだ。
ホ・ジンソク/韓国体育大学教授
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