三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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文字と映像による記録・事実の伝達

2024年02月27日 | 海南島史研究
■文字と映像による記録・事実の伝達   海南島近現代史認識の過程で■

                              佐藤正人
■聞きとりの意味と方法
 日本政府・日本軍・日本企業は、アジア太平洋地域における国家犯罪・侵略犯罪を隠しつづけている。
 日本人は、侵略犯罪者・戦犯ヒロヒトを、アジア太平洋戦争後も、天皇としつづけた。植民地機関の職員、日本軍の兵士、侵略企業の職員として、アジア太平洋の各地で、多くの民衆を殺傷した日本民衆は、日本敗戦後に帰国して、過去の犯罪を隠しつづけた。
 日本政府・日本軍・日本企業の国家犯罪・侵略犯罪にかかわる証拠文書は多くは焼却・廃棄されたか隠されたままである。したがって、その歴史的事実を解明するためには、犠牲者、加害者、目撃者からの聞きとりが重要である。
 聞きとった証言を歴史的事実確認の証拠とするためには、史料批判(信憑性の検証)が必要であるのは、文書史料と同じである。
 聞きとりは、歴史的事実を解明するうえで重要な作業だが、証言=事実、とすることができないのは当然である。聞きとりの内容の真実性をたしかめるために、他の証言や文献資料や実物資料、状況資料(当時の社会・経済関係、当時の地形・自然環境、当時の生活状態)との照合も可能なかぎり、おこなわなければならない。
聞きとりは、証言者と聞きとり者との共同作業である。一回だけの聞きとりは限界がある。
 わたしたちは、二〇〇八年八月までに、文昌市重興鎮排田村・白石嶺村・昌文村・賜第村、文昌市羅豆郷秀田村、文昌市抱羅鎮石馬村、文昌市南陽鎮老王村・托盤坑村、定安県黄竹鎮大河村、瓊海市九曲江郷波鰲村、瓊海市北岸郷北岸村・大洋村、瓊海市九曲江郷坡村・長仙村・南橋村・佳文村・鳳嶺村・官園村・戴桃村、瓊海市陽江鎮覃村、瓊海市烟塘鎮大溝村・書田村、瓊海市潭門鎮潭門村九所村、瓊海市新市鎮南城園村、瓊海市参古郷上坡村・外路村、瓊海市大路鎮川教村、万寧市石城鎮月塘村、万寧市東澳鎮豊丁村、万寧市南橋鎮田公村、万寧市龍滾鎮、万寧市和楽、万寧市烏場、万寧市北大鎮中興、儋州市中和鎮東坡村、儋州市長坡鎮呉村、陵水黎族自治県后石村・三十笠村、陵水黎族自治県陵城鎮南門嶺、瓊中黎族苗族自治県湾嶺鎮烏石、瓊中黎族苗族自治県黎母山鎮黎母山村・榕木村、瓊中黎族苗族自治県吊羅山郷、五指山市水満郷、楽東黎族自治県仏羅鎮仏羅村、東方市感城鎮長坡村、三亜市羊欗鎮妙山村、海口市永興鎮、海口市咸来鎮美村・美桐村・昌洽村・美良村・丹村、海口市三江鎮上雲村・古橋村・東寨村・演州村・福内湖村、海口市長流鎮儒顕村、海口市東山鎮儒万村、三亜市田独鎮「朝鮮村」……など海南島の各地を訪ね、住民虐殺の目撃者や幸存者から話しを聞かせてもらい、それを文字と映像で記録してきた。
 わたしたちは、同じ地域をくりかえし訪問し、同じ人びとにくりかえし話を聞かせていただくようにしてきた。そして、そのたびに新しい事実を知り、あいまいであった点を明確にすることができた。
 証言を聞き記録することは、侵略と抵抗の史実を探求するとともに、その史実の史料を創出することでもあった。
 日本では、加害者が証言を拒否しているが、証言拒否もまた、ひとつの証言の方法である。

■動画による記録
 わたしたちは、二〇〇三年春から、記録映画の制作をはじめ、二〇〇三年七月に、『海南島で日本人はなにをやったか! 日本軍の海南島侵略と抗日闘争① “田独鉱山・「朝鮮村」”』(二三分)を試作し、二〇〇三年一〇月に『日本は海南島でなにをやったか』(三分)を試作したあと、二〇〇四年春に、最初のドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 六〇年前は昨日のこと』(六五分)を完成させた。
 いちれんのドキュメンタリー制作の過程で、わたしたちは、聞きとりのありかたを検証するとともに、動画による記録の意味を分析しつつその方法を模索してきた。
 文字や絵による記録と静止画(写真)や動画という映像による記録とは、相互に補いあうものであるが、もちろんそれぞれが独自の役割をもっている。
 海南島で証言を聞かせてもらうときにビデオカメラを使いはじめた二〇〇一年一月からの数年間は、そのことの意味の大きさを明確に自覚しておらず、それまでの文字と写真による記録との質の違いをあまり重視していなかった。
 撮影しつつ発問し、発問しつつ撮影するという作業の意味を論理化しなければならないと気づいたのは、二〇〇三年春以後であった。

■写真による記録
 日本軍が海南島に奇襲上陸してから六八年後の二〇〇七年二月一〇日に発行した写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』は、終わっていない全世界的規模の民衆闘争の時代を、海南島という地域に限定して写真と証言(ことば)で記録し伝達しようとするものであった。
 ことばと写真は、記録する手段であるとともに、伝達する手段である。
写真と証言(ことば)は、相互に補いあって、事実を伝達してくれる。
写真は、ことば(文字)で表現できないことを伝達してくれる。
 写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』制作の過程で、わたしたちは、歴史認識と歴史叙述の手段として、写真の役割が大きいことを再確認した。
証言者は、ことばだけでなく、その姿と表情で証言する。
 写真を撮影し、選択し、編集していく作業は、写真によって歴史を叙述していく作業である。
 証言(ことば)を聞きとり文字で記録するとともに、映像で記録し、ことばと映像で史実を明らかにし、それを伝達していくことがたいせつである。

■文字と映像
 二〇〇四年四月に最初のドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 六〇年まえは昨日のこと』の日本語版を、七月に朝鮮語版を、一二月に漢語版を完成させたあと、わたしたちは、二〇〇五年秋にドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』の制作をはじめた。 最初のシナリオ草案の最終部分は、つぎのようであった。

 「南方」の島に強制連行された朝鮮人  グアム島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島……の朝鮮人。
 地図 現在のアジア太平洋地図アジア太平洋戦争期のアジア太平洋地図 。
地図 アジア太平洋戦争期のアジア太平洋地図→グアム島、トラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、ペルリュー島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島、硫黄島……。 
 映像 朝鮮人徴兵。
 ナレーション 朝鮮人は、日本軍基地造成のために、海南島よりさらに「南方」のトラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、マキン島、タラワ島などに強制連行されました。
 その地で、日本軍敗退時に多くの朝鮮人が、餓死、「戦死」させられました。 
獄中者を「南方」の島に送って強制労働させる策動は、一九三九年秋から、日本で始められていました。
 一九四三年まで朝鮮人獄中者の「南方派遣」が強行されなかったのは、日本政府・日本軍が朝鮮人の反抗を恐れたためだと思われます。
 軍隊内反乱を恐れていた日本政府が、朝鮮人に対する徴兵制を公布したのも「南方派遣報国隊」策動がはじめられたのと同じ一九四三年春でした。
 映像 ペルリュー島の朝鮮人犠牲者追悼碑(写真)。
 映像 グアム島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島……の当時の状況(写真)。 
 ナレーション 日本軍基地造成のために、トラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、マキン島、タラワ島などに朝鮮人が強制連行され、日本軍敗退時に多くの朝鮮人が、餓死、「戦死」させられました。
 映像 窪田精『トラック島日誌』。窪田精『流人島にて』 。
 ナレーション 「治安維持法」違反で横浜刑務所に入れられていた窪田精さんは、一九四二年三月に、「第五次トラック島図南報国隊」として、五〇〇人余りの受刑者と六〇人あまりの看守と共に、トラック島に向かう船に乗せられました。同じ船に、七〇〇~八〇〇人の「朝鮮人軍夫」も乗せられており、受刑者のなかにも朝鮮人がいたといいます。
 映像 トラック島。北川幸一『墓標なき島 ある受刑者の“戦争”』 。
 ナレーション トラック島に送られた受刑者や朝鮮人は、日本海軍の飛行場作りをさせられ、厳しい労働やアメリカ合州国軍の爆撃により殺されました。
三重県安芸郡美里村の村議Aさんは、当時トラック島に行った刑務官の一人でした。
 映像‥ウォッチェ島。
 ナレーション 「ウオヂェ赤誠隊」がウォッチェ島で海軍の飛行場基地を完成させたあと、一九四二年七月に、朝鮮人が軍属としてウォッチェ島に送りこまれ、道路建設などをさせられました。
 映像 「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」。 
「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 七三〇〇名(「タラワ」「マキン」両島に於ける玉砕者約一二〇〇名を含む)と推定せられ其の外行方不明七三五名を出せり」。
 テロップ 『第八六回帝国議会説明資料』一九四四年一二月、朝鮮総督府鉱工局勤労動員課、一六八葉)。
 ナレーション 一九四三年一一月に、マキン島とタラワ島の日本軍が、アメリカ合州国軍の攻撃によって壊滅しました。このとき、日本軍に使われていた朝鮮人労働者のうち、一二〇〇人が死んだといいます。  
 これは、そのことを当時の日本の議会に報告する朝鮮総督府の文書です。
 映像 テニヤン島。
 テロップ 一九四五年七月二四日、USA軍上陸時、朝鮮人二七〇〇人、日本人一万三〇〇〇人がいた。

 一九四三年九月三〇日に、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍の中枢は、「千島、小笠原、内南洋(中、西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む区域」を「絶対国防圏」(「帝国戦争遂行上、太平洋及印度洋方面に於て絶対確保すべき要域」)として設定した。しかし、一九四四年一二月に、「絶対国防圏」東端のマキン島とタラワ島の日本軍が、アメリカ合州国軍の攻撃によって壊滅した。一九四四年一二月末の朝鮮総督府文書『第八六回帝国議会説明資料』には、
 「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」のうち「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 七三〇〇名(「タラワ」「マキン」両島に於ける玉砕者約一二〇〇名を含む)と推定せられ其の外行方不明七三五名を出せり」
と書かれている。
 このことを、ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』で示そうとして、前記のようなシナリオを書いたが、このような説明的なことは、映像で伝達する必要がないと判断し、すべてを削除した。

■ドキュメンタリーのみが伝達する内容
 主として動画を編集して制作するドキュメンタリーと文字史料(聞きとりの文字記録をふくむ)・文献を分析して書く論文とは、それぞれの伝達内容が異なる。
両者が単独では伝達できない内容を、写真集ではいくらかは伝達できるが、その質は異なる。
 わたしたちは、ドキュメンタリーのみが伝達しうる内容を表現する方法を、ドキュメンタリーを制作していく過程ですこしづつ学習していった。
 わたしたちが留意したのは、できるだけ映像そのもので表現することであった。説明的になることを避けるために、ナレーションやテロップを簡潔にし、観る人が記録された映像の断片ひとつひとつに表現されている事実を認識しその歴史的意味を考える「動機」をもつことを期待してドキュメンタリーの編集をすすめた。
 わたしたちは、映像の選択・時間設定(テンポのとりかた)に多くの時間を使った。
 ドキュメンタリーという報告物を制作するために、わたしたちは、それまで撮影した映像を前提としておおまかな構成を決め、シナリオ草案を書きあげ、シナリオの各パートごとに三秒間から数分間のクリップを一〇〇個ほどつくり、それを編集していった。
 そのさい、わたしたちは、ひとつの場面のクリップを三秒にするのか五秒にするのかを決定するのに数時間討論したこともあった。
 一日に数十個のクリップを編集していけば、計算上は一か月ほどで一時間のドキュメンタリーを制作できるが、実際にはその一〇倍ほどの時間が必要であった。
 また、できるだけ文書を画面にださないように工夫したが、たとえば、金慶俊さんの戸籍簿の
 「一九四三年十一月一日午後十一時三十分南支那海南島白沙県石碌朝鮮報国隊隊員病舎ニ於テ死亡京城刑務所長朝鮮総督府典獄渡辺豊届出同年十二月二十四日受附」(原文は、「元号」使用)
という部分は、とりこんだ。
 この文書は、「朝鮮報国隊」ということばが記されている数少ない公文書のひとつである。
 わたしたちは、この文書の画像に、「金慶俊さん(一九一五年一〇月一六日生)の戸籍簿」というテロップをつけ、石碌地域の映像とソウルで話を聞かせてもらうことができた金忠孝さん(金慶俊さんの甥)の証言映像とを合わせて三二秒ほどのクリップをつくり、
 「金忠孝さんの叔父金慶俊さんは、「朝鮮報国隊」に入れられ、海南島に強制連行され、石碌で亡くなりました。二八才の誕生日の一か月後でした。妻の裵鳳業さんとのあいだの金忠萬さんは生後七か月でした」
というナレーションを入れた。
 
■映像による証言内容の伝達
 ナレーションをいれず、証言者の声以外の現地音を絞りきって、映像のみによって証言内容を伝達することを、わたしたちは試みた。
 それは、映像が伝達しうる内容を表現する究極の方法なのだが、そのためには、その原映像が、そのような試みに耐えうる質をもつものでなければならない。
 そのような映像を記録することは、撮影技術とは無関係のことであって、それが可能な「場」に撮影者(記録者)がいることが決定的な条件である。同時にそのような「場」は、撮影者が撮影を中止すべき「場」でもある。

■対象と自己の関係
 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』で、わたしたちは、一九四五年五月二日に日本兵によって命を奪われた月塘村の人びとの生と死の軌跡をたどろうとした。六〇年を越す歳月のかなたで、ある日突然いのちを奪われた、いまは不在の人たちの生と死を、どのように映像で表現するのか、どうしたら、映像で表現できるのかを考えつづけながら。
 殺害現場、墓地の映像では、殺された人たちのそれまでの生を表現できない。あの時まで、人びとが呼吸していた月塘村の大気や、浴びていた光を撮影する方法を、わたしたちは模索した。殺された人びとのそれまでの生を表現できなければ、その死の重さを、意味を表現できないと思いつつ。
 その模索の過程で、わたしたちは、ドキュメンタリーで表現できるのは、表現しなければならないのは、対象そのものではなく、対象と自己の関係ではないかと考えはじめた。
 おそらく、対象と向き合う者のありかたによって、映像としての対象が規定されるのだろう。
 死者の生と死の軌跡を映像化しようとするとき、対象は直接的な映像としては実在せず、ただ関係においてのみ「実在」するのではないか。

■月塘村へ
 わたしたちは、一九九八年夏に、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(一九九五年八月)によって、月塘村虐殺のことを知った。
 二〇〇二年春にはじめて万寧市万寧鎮に行き、地域の日本軍犯罪史と抗日反日闘争史を研究している蔡徳佳さんに会った。
 蔡徳佳さんは、
 「万寧市北部の六連嶺地域は、抗日武装部隊の根拠地だった。侵略と抵抗の歴史を統一的に具体的に追及しなければならない」、
と言った。わたしたちは、これから、共同作業が実践的にも思想的にも可能となる道を求めていきたいと話しあった。
 蔡徳佳さんは、万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(『万寧文史』第五輯、一九九五年七月)を寄贈してくれた。
 そこには、月塘村虐殺にかんして、蔡徳佳さんが林国齋さんと共同執筆した「日軍占領万寧始末❘❘製造“四大屠殺惨案”紀実」と、楊宏炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・二一”惨案」が掲載されていた。
 二〇〇五年秋、わたしたちは、蔡徳佳さんに紹介されて、万寧市内で、朱進春さんから話を聞かせてもらった。当時八歳だった朱進春さんは月塘村に侵入してきた日本兵に銃剣で八か所刺されながらも生き残ったが、その後、村人に「パァタオ(八刀)」と呼ばれたという。
 わたしたちが、はじめて月塘村を訪れたのは、二〇〇七年一月一七日であった。この日朝、わたしたちは、月塘村に生まれ万寧市内に住んでいる朱深潤さんに月塘村につれて行ってもらった。この日、わたしたちは、自宅で朱学平さんから、あの日のことを聞かせていただいた。
 その四か月後、五月に、わたしたちは、再び月塘村を訪ねた。
 わたしたちが、朱学平さんから、瀕死の妹の朱彩蓮さんを抱えて「坡」まで逃げたことを聞いたのは、朱学平さんにはじめて会った日だった。その後、五月に再会し、一〇月はじめから一一月上旬にかけて月塘村に毎日のように行って、なんども朱学平さんに会った。
 二〇〇七年一月には、わたしたちには月塘村虐殺にかんするドキュメンタリーを制作するという発想はなかった。
 五月に、月塘村で朱進春さんや朱振華さんなどと話し合っているとき、いっしょにドキュメンタリーを制作しようということになった。数日後、わたしたちは、その準備作業として、月塘村の風景の撮影を始めた。
 月塘のそばの太陽河ぞいの三叉路にカメラを固定し、遠景を撮影していると、遠くから鍬をかついだ人が歩いてきた。その人が近づいてくるのを撮影しつづけた。その人は、朱学平さんだった。畑から帰る途中だということだった。
 その後も、このような偶然の出会いが何度となくあった。
 何度会っても、朱学平さんは、笑うことがなかった。
 その朱学平さんを見ているとき、しばしば、わたしたちは、一九二六年一月に、四歳のとき、日本の三重県木本町(現、熊野市)で父裵相度さんを虐殺された裵敬洪さんのことを思った。
 裵敬洪さんは、
 「父が殺されてから、わたしは心の底から笑ったことは一度もない」
と言っていた(金靜美「白いトックがふみにじられていた 裵敬洪さんの記憶より」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』二〇〇二年一一月)。

■ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
 わたしたちは、朱学平さんが自宅や虐殺現場で証言する映像に、つぎのようなナレーションをいれた。

 朱学平(チュシュエピン)さんは、
 「わたしは、一二歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。わたしだけが生き残った。母、兄の朱学温(チュシュエウェン)と朱学敬(チュシュエジン)、姉の朱彩和(チュツァイホ)、叔母二人、いとこ二人、そして六歳だった妹の朱彩蓮(チュツァイリェン)が殺された。
わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。
 血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。      
 村はずれに隠れた。
 半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火にあっていたが、骨になりきっておらず、く さっていた。
 まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(ワンニン)から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
 その五年前の一九四〇年一一月二八日に、父の朱開廉(チュカイリェン)が、近くの東澳(トンアオ)村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃たれて殺されていた」
と話した。

【写真】朱学平さん

■朱彩蓮さん
 わたしは、朱学平さんの妹、朱彩蓮さんを、映像で表現したいと考えた。もちろん、朱学平さんの記憶のなかの朱彩蓮さんを撮影することはできない。しかし、朱彩蓮さんを記憶している朱学平さんを撮影することはできる。
 わたしは、思い切って、朱学平さんに、あの日朱学平さんが朱彩蓮さんを抱いて逃げた「坡」まで行きたいと言った。
 朱学平さんは、「坡はすっかり変わってしまった」とだけ答えた。
 その数日後、わたしは、朱学平さんと、「坡」に向かった。その道は、以前にも歩いたことのある道だったが、朱学平さんといっしょに歩いていると、見知らぬ違う道のように感じた。
 以前行った地点を通り越して、道がなくなったところをさらに一〇〇メートルほど行ったところで朱学平さんは立ち止まった。すぐそばを太陽河が流れていた。
そこで、朱学平さんは、つぎのように話した。

 「あのとき、わたしは、妹を抱いて、前を走っていく人について、逃げた。
妹が痛いというと、いったん下におろし、また抱えて走るようにして逃げた。 
雨が降りそうになったので急いだ。ここまで逃げてきて隠れた。ここには一〇〇人あまりが隠れた。
 あの日、午後三時ころだったと思うが、大雨が降った。夜には止んだ。
ここにはすぐには食べるものがなかったが、まもなくさつまいもを探して掘って煮て食べた。鍋は、‘坡’に住んでいた人に借りた。水は太陽河から汲んできた。 
 妹は、三日後に死んだ。
 妹は、なにも食べようとしないで、水だけ飲んで死んでしまった。妹は、ただ、痛い、痛いと言って、水だけを欲しがった。
妹のからだは、年寄りに助けてもらって近くに埋めた。いまでは、どこなのかはっきりしない。
 叔父(朱洪昆)が日本兵に一〇か所あまり刺された。からだに虫がわいて、何日もしないうちに死んだ」。

【写真】太陽河・牛

 こう話したあと、朱学平さんは、樹と草の茂みに入って行った。そして、とつぜん泣き出した。
 そのあと、朱学平さんは、仕事があると言って、一人で家に帰って行った。
 岩場の多い太陽河が、光って流れていた。太陽河沿いの細い道を下流に進んでいくと、銀白色のススキが風に大きく揺れていた。すぐに道が川辺をはずれ、ビンロウジュの畑にでた。
 夕方、帽子を返しに、朱学平さんの家に行ったが、朱学平さんはいなかった。連れ合いさんが、
   「午後、坡から戻ってから、夫はずっと泣いていた」、
と話した。

■歴史叙述・記録・映像
 ドキュメンタリーは、記録であるとともに、歴史叙述である。
 ドキュメンタリーのシナリオは、ことばによる記録と歴史叙述だが、文章形式のことばだけによる記録・歴史叙述とは違い、影像による表現を前提としている。
 ドキュメンタリーシナリオという形式での記録・歴史叙述は、撮影してきた映像および撮影しようとする映像に規定されるが、同時に、撮影できない映像をも前提としなければ、書きあげることができない。
 ドキュメンタリーのシナリオは、証言を文字で記録しているという意味では記録であるが、映像を前提とし数百個のクリップを編集しているという意味では歴史叙述である。
 わたしたちにとって、『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書くということは、歴史を認識すると同時に歴史を叙述するということだった。
 ナレーションという形式の歴史叙述を書くためには、依拠する文献史料の史料批判を厳密におこなわなければならないのは当然である。
 ナレーションは、現在の証言映像に示されている過去の歴史的事実、現在の廃墟の映像に示されている過去の歴史的事実をことばによって「解説」するものであり、文献史料と影像史料を結びつける役割を果たすものである。

■史料としての映像記録
 ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』は、二〇〇一年一月以後に撮影した一〇〇時間近い原映像を編集したものである。その構成を決定し、シナリオを書く作業は、文字による歴史叙述の場合と方法的には同じ作業であった。
 撮影を開始したときには、自覚していなかったが、「朝鮮報国隊」について語る証言者や「朝鮮報国隊」にかかわる現場を撮影することは、「朝鮮報国隊」にかんする史料を創出することであった。
 ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』のシナリオを、わたしたちは、海南島と韓国で撮影した原映像と日本内閣文書・朝鮮総督府文書・日本軍文書などを史料として執筆した。
これまで、わたしたちは、「朝鮮報国隊」に入れられ、生き残って故郷にもどることができた人たちから、韓国で話を聞かせてもらうことができた。そのうち、証言している映像の公開を承諾してくれた人は、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんであった。わたしたちは、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんを何回も訪ねた。
 その証言を記録した映像は数十時間だが、そのうち、ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』で紹介できたのは、五分ほどであった。したがって、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんの証言の史料としてのドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』の役割はきわめて限定的である。
 「朝鮮報国隊」にかんする文書史料は、ほとんど公開されていない。
わたしたちが撮影した映像史料を検討することなしに、これからは、「朝鮮報国隊」にかかわる日本の侵略犯罪事実を明らかにしていく作業はほとんど進展しないだろう。
 「朝鮮報国隊」にかんする史実探求においてだけでなく、国民国家日本の海南島侵略犯罪にかんする史実探求においても、わたしたちが撮影してきた証言映像・現場映像は、その史実にかかわる史料となっている。

【写真】「朝鮮村」
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