三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 15

2007年04月05日 | 海南島史研究
 1989年6月に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会の運動がはじまり、1994年11月、追悼碑が、熊野市木本トンネル入口の高台に建った。その西方20キロたらずのところに紀州鉱山がある。
 石原産業が経営していた紀州鉱山は、いまは閉山されているが、かつておおくの朝鮮人が働かされていた。
 その事実を明らかにしようとして、追悼碑を建立する会の運動のなかから、1997年2月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会が生まれた。
 朝鮮人を強制連行し働かせていた石原産業は、マラヤや海南島やフィリピンなどでも労働者を酷使し鉱石を略奪していた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、その事実を調査するために、海南島に行くことにした。
 その準備をしているとき、四川大学から発行された『抗日戦争』に引用されている海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』を読んだ。 そこには、石原産業は海南島の田独鉄鉱山で、上海、広州、香港、アモイ、汕頭、厦門から騙して連行してきた人たちや朝鮮人を働かせていた、日本海軍は海南島各地から田独鉱山に「民工」を強制連行していたと書かれていた。また、三亜市荔枝溝鎮三羅二村に「一千余名朝鮮籍的政治犯」が埋められており、村人たちが、村の名を「朝鮮村」に変えたと書かれていた。

 わたしたちは、1998年6月下旬、はじめて海南島に到着した日に、海南省政治協商会議文史資料委員会を訪ね、『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』を主編した符和積さんに会った。
 符和積さんは、抗日戦争勝利50周年を記念して、海南島各地の政治協商会議文史資料委員会が、日本占領下に受けた「暴行」の聞き取り調査をおこない、それを省の政治協商会議文史資料委員会がまとめたのが『鉄蹄下的腥風血雨』であると話した。
 同書編集当時、海南省の行政区は、4黎族自治県(陵水、楽東、昌江、白沙)、3黎族苗族自治県(保亭、瓊中、東方)、4県(臨高、屯昌、澄邁、定安)、 8市(海口、三亜、瓊山、儋州、通什、瓊海、文昌、万寧)に分けられており、それぞれの地域に文史資料委員会が組織されていた。

 その後、わたしたちは、2002年10月までに、海南省のすべての政治協商会議文史資料委員会を訪問し、各地域での聞き取り調査・報告執筆を担当した人たちから話を聞かせていただいた。
 そのさい、とくに、政治協商会議三亜市委員会の羊杰臣さんと蔡文恵さん、昌江黎族自治県文史工作室の趙志賢さんと文宇光さん、陵水黎族自治県文史資料委員会の蘇光明さんと馮少雄さん、保亭黎族苗族自治県文史資料工作委員会の張応勇さん、臨高県文史資料研究委員会の王碧中さん、楽東黎族自治県文史委員会の邢華冑さん、万寧県政協文史弁公室の蔡徳佳さんには、わたしたちの「調査」に同行していただくなど、多大な協力をしていただいた。
 わたしたちは、侵略と抵抗の歴史を具体的に追及するために、これらの方がたとの共同作業が実践的にも思想的にも可能となる道を求めていった。
残念ながら、その途上で、趙志賢さんは2000年秋に、羊杰臣さんは2003年7月に、張応勇さんは2005年12月に病死された。

 『鉄蹄下的腥風血雨』、政治協商会議三亜市委員会編『日軍侵崖暴行実録』、昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6(暴行与反暴行専輯 )、政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編 『日軍侵陵暴行実録』、政協臨高県文史資料研究委員会編『臨高文史』10(日本侵臨暴行史料専輯)、政協楽東黎族自治県文史委員会編著『血泪烽烟』、政協保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編『保亭文史』 9(紀念抗日戦争勝利50周年)、瓊山市政協文史資料委員会編『侵略与反抗』、万寧県政協文史弁公室編『 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』、瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』6(日軍暴行録専輯)を含む海南島各地の『文史資料』は、わたしたちの海南島「現地調査」のときに不可欠の基本資料である。
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