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「「中国で550万人興行」の慰安婦被害者ドキュメンタリー映画「22」、韓国で封切り」

2018年08月20日 | 日本軍隊性奴隷
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/31340.html
「The Hankyoreh」 2018-08-13 08:47
■「中国で550万人興行」の慰安婦被害者ドキュメンタリー映画「22」、韓国で封切り
 韓中合作ドキュメンタリー「22」、14日に国内封切り 
 
 18歳に連れて行かれたパク・チャスンさんなど 
 22人の人生と肉声を淡々と描き  
 昨年、中国で観客550万人の大興行 
 韓国では初めての国家指定メモリアルデーに封切り  
 撮影の時に22人だった生存者、いまは6人 
 「韓中の慰安婦問題の共同対応のきっかけなれば」

【写真】中国内の韓国人慰安婦被害者であるパク・チャスンさんとボランティアたちの様子=アジアホームエンターテインメント提供//ハンギョレ新聞社

 韓国語はほとんど忘れた。幼い頃は記憶力も良く、どんな歌でも聞けばすぐに歌えたが、90を過ぎると記憶が薄れがちになった。しかし、故郷の歌の数小節はまだはっきり覚えている。「アリラン、アリラン、アラリヨ、アリラン峠を越えていく、私を捨てて行くあなた、十里も行かずに足が痛む」
 中国の名はマオ・インメイ、韓国の名前はパク・チャスン(1922~2017)。生計のために中国に来た父が亡くなると、母は5歳の娘を残して故郷に向かった。祖母の手に育てられたパク・チャスンは18歳になった1941年、「大きな靴下工場で働くようにしてやる」という誘いにだまされ、日本軍の慰安所に連行された。戦争が終わって生き残ったものの、故郷に帰る道は絶望的で、中国に残った。中国の独身男性と結婚したが、慰安婦時代の後遺症で不妊になった彼女は地元の少女を養女にした。歴史の痕跡が深く刻まれた辛い日々を振り返りながら、パク・チャスンは話した。「あんまり長生きするんじゃないか心配だ。何の役にも立たなくて」

【写真】映画「22」の中パク・チャスンさん(右)と彼女の養女=アジアホームエンターテインメント提供//ハンギョレ新聞社

 韓中合作ドキュメンタリー「22」は、中国に生存する慰安婦被害女性の肉声をただ淡々と描くことに集中する。タイトル「22」は、2014年の撮影当時、中国に生存していた慰安婦被害者の数字だ。郭柯監督は、いかなる人為的介入も排除するためにBGMすら使わなかった。おばあさんたちの口で「人生」を証言する時まで、待って耐えることが全てだ。そのようにして4年がかりで完成した「22」は昨年8月14日、中国で公開され、550万人の観客を動員した。制作費比60倍の収益を出し、歴代中国のドキュメンタリー映画で興行1位となった。そして、ちょうど1年後である今月14日、この映画が韓国で封切られる。8月14日は故キム・ハクスンさんが1991年に放送を通じて初めて慰安婦被害事実を公開証言した「メモリアルデー」で、韓国内では今年初めて国家指定日に決まった。
 韓中が共に慰安婦問題を盛り込んだ「22」を作ることになった理由について、制作会社アジアホームエンターテインメントのキム・ウォンドン代表は「運命」だと話した。すでに慰安婦映画「音叉」(2014)とドキュメンタリー番組「少女に会う」(2014)などを製作したキム代表は、パク・チャスンさんに会いに中国の湖北省を訪れ、郭柯監督一行と出会った。「私たちはパクさんを故郷にお連れするため、またその過程を放送番組として撮るために中国に行き、郭柯監督は映画「22」を撮影中だったのです」。「22」のために暮らしていたワンルームまで処分した郭柯監督の情熱、綿密な企画力と事前取材分にキム代表は感動を受け、すぐに彼と意気投合した。「郭柯監督の企画どおり映画を制作することにし、私たち側の制作費を一緒にしました。だたひとつの条件はパク・チャスン、イ・スダンさんの話を大きく取り上げてほしいということでした」。

【写真】ボランティアが中国人慰安婦被害者を慰労している=アジアホームエンターテインメント提供//ハンギョレ新聞社

 しかし、情熱だけでは撮影の終了も開封も容易ではなかった。制作費はすぐ底をつき、両国のどの配給会社も映画に関心を傾けなかった。「当時、韓国ではチョ・ジョンレ監督の慰安婦映画『鬼郷』が大きな興行を果たしたのですが、郭柯監督が『鬼郷』を真似てクラウドファンディングをしてみようというアイデアを出しました。天も感動したのか、馮小剛監督をはじめ、俳優・製作者など意識あるセレブたちがSNSを通じて次から次へと広報に参加してくれました」。そのようにして3万2099人が参加し、100万人民元(約1600万円)の目標額を募金し、映画も記録的興行に成功した。
 このような縁で「鬼郷」のチョ・ジョンレ監督は昨年8月、郭柯監督の招待を受けて中国を訪問した。チョ趙監督は「到着するとすぐに、私を湖北省にあるパク・チャスンさんの墓地に連れて行ったんです。娘さん(養女)がパクさんの遺影の前で『お母さんがあれほど行きたがった故郷から人々が来てくれた』と言いました。一緒に抱き合ってたくさん泣いたことが思い出されます」と回想した。
 韓国と違い、中国では映画「22」を通じて慰安婦問題が本格的に知られ始めた。「偉大な中国」を強調する雰囲気の中で、慰安婦問題のような辛い歴史はちゃんと明らかにされないからだ。「実は昨年8月は限韓令(韓流禁止令)が威勢をふるった時期で、中国では韓中合作ということを明らかにするのも大変でした。韓国開封を機に、この問題は国境を越えて、韓中が一緒に対応すべき問題だという共感が形成されればと思います」

【写真】中国慰安婦被害女性が自分の話をしながら涙を流している=アジアホームエンターテインメント提供//ハンギョレ新聞社

 「22」はチャン・カイシャンさん(1925~2014)の葬式で終わる。雪に覆われた墓にはいつのまにか緑の芝生が生え、春が来る。時間の流れはあっという間だ。22人だった中国内の生存者の数は、4年で6人(2018年)に減った。「気持ちが急かざるを得ないのはそのためです。興行にならないことを知りながらも、映画界の上映最盛期の8月14日の封切りにこだわるのは、その意志を記憶しようという意味です。『また慰安婦問題か』という非難が一番胸が痛みます。慰安婦映画を作る人は、常に終えることのできない宿題を続けている気分だと言います。みんなが一緒に手掛ければこの宿題ももうちょっと早く終わるのではないでしょうか」(キム・ウォンドン代表)

ユ・ソンヒ記者
http://www.hani.co.kr/arti/culture/movie/857283.html
韓国語原文入力:2018-08-12 23:10


http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2018-08/18/content_58925208_2.htm
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2018-08/18/content_58925208_3.htm
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2018-08/18/content_58925208_4.htm
「中国網日本語版(チャイナネット)」2018年8月18日
■中国の「慰安婦」を支える人たち 日本に謝罪させるために奮闘
 8月14日は世界「慰安婦」記念日にあたる。同日、日本軍が侵略戦争中に行った「慰安婦」暴行を明らかにする映画『大寒』が再上映された。高齢の中国人「慰安婦」が再び衆目に晒され、彼女たちの経歴に対し悲痛の声が上がっている。
 あまり知られていないが、数十年にわたり彼女たちに寄り添ってきた人たちがいる。「中国慰安婦民間調査の第一人者」の張双兵氏、中国戦争被害者「慰安婦」訴訟弁護士団団長の大森典子氏、訴訟団メンバーの中国人弁護士の康健氏、「中国慰安婦問題研究の第一人者」の蘇智良氏である。山西、東京、北京、上海にいた彼らは1990年代初めにあるきっかけで出会い、中国「慰安婦」問題研究に着手し、被害を受けた高齢者の日本政府告訴を支援してきた。
 『環球時報』の記者はこのほど、高齢の中国人「慰安婦」を支えてきた4人を取材し、この20年の紆余曲折を聞いた。

★張双兵氏:1日生きるのは1日戦うのと同じ
 『環球時報』の記者が7月31日に四川省の建川博物館の工農兵旅館で張双兵氏と会った時は、ちょうど映画『大寒』の宣伝期間だった。長旅で疲れた彼は活動の合間に宿泊所のベッドで休んでいたが、記者に気づくとすぐに体を起こし、髪を整えて迎え入れた。あくびをし、疲れた様子だった。

写真は、取材当日(7月31日)、四川省大邑県の建川博物館にいる張双兵氏

 張双兵氏は「中国慰安婦民間調査の第一人者」と言われている。過去36年で、彼は「慰安婦」と見られる高齢者約300人を見つけ、130人以上が日本軍による犯罪を認め、詳しく語り、120人の物語が映画『大寒』の素材に使用された。また、彼は「慰安婦」16人を3回に分けて16年かけて実名訴訟し、日本政府に公開謝罪と賠償を求めた。

【写真】2004年6月、張双兵氏は中国人「慰安婦」を連れて日本の国会で賠償請求会議を行った。

 1937年12月から1945年8月、中国侵略日本軍109師団135連隊は山西盂県を侵略し、70カ所以上に「慰安所」などの施設を設立し、1000人以上の「慰安婦」を強制連行し、彼女たちを乱暴に傷つけ、多くの被害者が日本軍の残虐行為で命を落とした。
 張双兵氏は盂県西潘郷羊泉村の小学校教員で、1982年秋に児童の家庭訪問に向かう途中で地面にしゃがんで麦を刈っている侯冬娥さんと出会い、彼女が「慰安所」で屈辱を経験し一生傷が残っていることを知った。張双兵氏はこの上ない衝撃と怒りを覚え、中国人「慰安婦」を探し始めた。
 どこかに「慰安婦」と見られる高齢者がいると聞けば、張双兵氏はぼろぼろの自転車に乗って聞き回り、わずかな手掛かりも逃さなかった。当時、張双兵氏の月収は50~60元で、普段の生活費を除くと半分以上を調査に費やし、家族からは反対もあった。母親から生前に、それらの「慰安婦」はあなたの母親かと言われたこともあるという。

写真は1998年冬、山西省の「慰安婦」高齢者の李秀梅さんのもとを訪れた張双兵氏

 しかし、噂があっという間に広がる農村で、女性に「慰安婦」だったことを認めさせるのは非常に困難で、調査は進展しなかった。1990年代初め、張双兵氏は新聞で日本が戦時中の中国人労働者に賠償するという記事を目にした。彼は「高齢者たちが苦しみを訴えるときがきた」と興奮した。十数年かかり、彼女たちは張双兵氏に心を打ち明けるようになり、賠償のことを聞いた家族らの態度も変わり、張双兵氏はようやく作業できるようになった。
 しかし2007年4月27日、日本の最高裁判所は敗訴判決を下した。謝罪も賠償もなくなり、一部の家族は怒りを張双兵氏にぶつけた。彼はこれにより辛い思いをし、暴力を受けたこともあった。ある年の大晦日には裁判所から名誉毀損の賠償金要求も送られてきた。取材中、表現しづらい場面で彼はため息をついた。そのため息からは想像を絶することを経験したことが感じられる。
 取材当日は『大寒』の127人目の「慰安婦」曹黒毛さんが亡くなって7日目だった。張双兵氏は「母親を亡くした。しかも約束を破ってしまった」と涙ながらに語った。張双兵氏によると、多くの「慰安婦」が日本軍の暴行により出産できなくなり、悲惨な晩年生活を送っている。彼は、日本政府に謝罪させ、賠償させることを約束していた。
 「少しやるせない気持ちになることもあるのではないか」という記者の問いに対し、「少しではなくかなり。自分は65歳になり、心臓病を抱え、健康ではない。気持ちはあるが力不足だと常々感じる。でも諦めきれない、一生続ける。いつか高齢者たちに正しい考えを持ってもらう。1日生きるのは1日戦うのと同じ」と語った。

★大森典子氏:日本に謝罪させるために懸命に努力している
 中国の「慰安婦」を支える人といえば、大森典子氏ははずせない。彼女は中国戦争被害者「慰安婦」訴訟弁護士団団長、東京町田法律事務所の弁護士である。
 大森典子氏は裁判官の家庭で育ち、幼い頃から弁護士を志していた。1968年、彼は弁護士免許を取得し、日本で数少ない女性弁護士になった。優秀な大森氏は日本で最も権威のある東京中央法律事務所に勤務していたこともある。この事務所は複雑な案件、中でも憲法関連の案件を得意とする。
 1994年、大森典子氏は中国人「慰安婦」による日本政府訴訟を支援することを決め、日本弁護士調査団に入った。同年10月、山西省を訪れて「慰安婦」を調査。当時、このような行為は理解されず、彼らは地下室や倉庫などを転々とした。
 当時の日本弁護士団のメンバーは多く、100人を超えていた時期もあった。しかし、「これらのことに関わればどうなるかわからない」と考える人は多かった。大森氏の初志は単純で、「これらのこと、彼らが何をしたかをはっきりさせたかった」と話す。その後、なんとなく参加していた人たちが抜け、大森氏は堅持した数少ない人物になった。
 大森典子氏は記者に対し、「日本で普通の教育を受けた若者は日本の侵略の歴史を知る機会がない。自分も訴訟の準備を進める中で日本軍がこのような悲惨なことをしていたことを知った」と述べた。
 取材を受ける前、大森典子氏は出張から戻ったばかりだった。70代の彼女は普段、婚姻、経済、相続関連の法律事務を行い、収入は全て「慰安婦」問題調査訴訟に費やしている。大森氏は、「稼ぎが少ない弁護士だけど、少しも後悔していない」と冗談を言った。
 大森典子氏は24年間、一度も諦めようと思ったことはないという。彼女は、「慰安婦」高齢者たちが実名で立ち上がることは勇気のいることで、立ち遅れた村では特にそうだと話す。「彼女たちが過去の屈辱的な行為を話してくれたのは信頼してくれているから。彼女たちに責任を持ち、中途半端ではいけない」と大森典子氏は話す。
 日本軍が犯した「慰安婦」に対する罪は歴史的事実だが、訴訟は想像以上に困難である。大森氏は、「訴訟は失敗したが、日本政府にこの犯罪の事実を認めさせたことは大きな成果。そのほか、中国の「慰安婦」が出廷して証言したことは、日本軍の暴行が韓国や東南アジア諸国だけでなく、中国でもあったことを証明し、これは法律訴訟の空白を埋めた」と述べた。
 今後について、大森氏は「日本政府に謝罪させるために努力している。彼女たちに努力を見てもらい、今後も続け、多くの日本人に歴史の真相を知ってもらいたい」と語った。

★康健氏:被害者が亡くなったらこの件は終わりだと思って欲しくない
北京方元弁護士事務所主任の康健氏は、中国「慰安婦」対日訴訟弁護士団のメンバーでもある。彼女は23年で山西、海南、遼寧などの省をまわり、日本人弁護士による中国人「慰安婦」の状況調査と日本政府訴訟に協力した。
 1995年9月、国連の世界女性会議が北京で開かれ、康健氏は中国の女性弁護士代表として出席した。座談会の終盤で、日本人弁護士の大森典子氏は中国人「慰安婦」訴訟案に法律面の支援をすることを提起したが、開国人弁護士であるため不便な点が多く、中国人弁護士に助けを求めた。当時、会場は静まり返ったが、康健氏は自ら願い出た。彼女は記者に対し、「本当は一度だけ調査に協力するつもりで、一生やるとは思っていなかった」と話した。
 日本弁護士団によると、康健氏と張双兵氏は手紙で連絡を取り合った。康健氏は2通目の手紙で張双兵氏に、1996年3月に山西省に「慰安婦」調査に行くことを伝えた。
 山西省盂県西潘郷羊泉村の「慰安婦」の劉面換さん宅で、彼女は当時の悲惨な状況を思い出して康健氏の胸の中で「自分はきれいではない。人ではない」と号泣した。1943年、3人の日本兵が劉さん宅に押し入った。当時16歳の劉面換さんは必死に抵抗し、日本軍は銃床で彼女の左肩を叩いて強制連行し、40日間駐屯地に監禁した。そのせいで、彼女に障害が残った。
 康健氏は侯巧蓮さんの経歴にも心を痛めた。当時、ある人物が日本兵に彼女の父親が八路軍と関係していると伝え、父娘2人が連行された。日本兵はまず2人に暴力を振り、父親をオンドルのたき口に入れ、その上でまだ13歳だった彼女に暴行を加えた。
 康健氏は記者に対し、「十数年たっても、一部の高齢者は自分たちが悪いと思っている。他人がいない部屋で、彼女たちは私の耳元でこれらのことを話してくれた。彼女たちにとって、これは人に知られてはいけない恥ずかしいこと」と話した。
 家族が侯巧蓮さんを取り戻したとき、彼女は正常な精神状態でなく、回復するまで長期間かかった。1998年頃、侯巧蓮さんは日本で出廷し、帰宅途中で北京を通り、康健氏が彼女を天安門と故宮に連れて行くと非常に喜んだ。その数カ月後に彼女は亡くなった。「これらのことを話すと今でも背筋が冷たくなり、体が震える。本当に腹立たしい。当時、最後まで彼女たちを支えると決意した」と康健氏は語った。
 康健氏はこれまでに日本で50回以上出廷したことがある。65歳の彼女は今でもあちこちを駆け回り、日本政府に歴史を正視するよう促す手紙を毎年送っている。また、「慰安婦」の遺産申請にも積極的に取り組んでいる。彼女は、「民間団体の力はまだ弱いが、継続しなければいけない。被害者が亡くなったらこの件は終わりだと思って欲しくない」と話した。

★蘇智良氏:「慰安婦」のために何ができるか
 上海師範大学「慰安婦」研究センター主任の蘇智良氏は偶然訪れたきっかけでこの研究を始めた。1992年から1993年まで、蘇智良氏は東京大学の客員学者をしていた。ある日本人学者は彼が上海出身であることを知り、日本軍の最初の「慰安所」が上海にあったことを知っているかと聞いた。
 蘇智良氏は上海の歴史を専門に研究していたが、「慰安婦」については全く知らず、中国人として掘り下げて研究する責任がある分野だと思った。
 1993年の帰国後、蘇智良氏は「慰安婦」の歴史調査研究を開始した。彼は上海に4カ所の「慰安所」があったと思っていたが、確認できた数は180カ所に達した。蘇智良氏は、「戦争状態で記録できたのは氷山の一角に過ぎず、実際はもっと多いだろう。日本軍は「慰安婦」制度を徹底し、多くの被害者が表札もない「慰安所」や拠点、砲楼に連れて行かれた」と話す。蘇智良氏によると、生存する中国の「慰安婦」は14人だったが、曹黒毛さんが今年7月に亡くなり13人になった。しかし先日、湖南省の90代の彭仁寿さん、彭竹英さん姉妹が「慰安婦」の経歴を初めて公開し、現在は15人になった。「慰安婦」被害者の統計作業はスタートが遅く、30~50年前に訴えるよう働きかけていれば、現在より多かったと蘇智良氏は話す。
 蘇智良氏は「慰安婦」研究を20年以上続けており、その原動力について、「数千年続く中華民族の中に、行動を起こす人は必ずいる。‘耕作だけを気にして収穫を気にしない’というわけにはいかない。学者として、この歴史を詳しく記録する必要がある」と述べた。
 2007年の最終判決から11年が経ち、中国人「慰安婦」が日本政府から謝罪と賠償を受けられる可能性はどれほどか。これについて蘇智良氏は、反人道的な罪が永遠に責任追及されなくても、中国の民間には賠償請求する権利があるとの見解を示す。「いつか正しい判断が下る。その日がいつになるかわからないが」と話す彼は、戦争に終わりはないと思っている。この戦争は「慰安婦」被害者と当時の人たちだけでなく、後世、さらには現在の若者にも影響を及ぼしている。
 映画『大寒』について、蘇智良氏は「欠けている部分もあるが、これは一種の記録方法。慰安婦のために何ができるか。映画を制作したり、報道するだけでもよい」と述べた。
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