三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2019年の追悼集会報告

2020年11月06日 | 集会
■2019年の追悼集会報告■

■李基允氏と裵相度氏を追悼する集会  11月9日
 李基允氏と裵相度氏を追悼する碑の前で、第26回目の追悼集会をおこないました。 その後、「木本事件」現場である木本隧道、西郷川にかかる笛吹橋を渡り、親爺町を歩いて、極楽寺に行きました。「木本事件」当時、西郷川の河川敷にトンネル工事で働く労働者の飯場がありました。
 極楽寺では、足立知典住職がつくった李基允氏と裵相度氏の墓地に敷き詰められた石の文字がまだ読めました(2007年12月、尾鷲の小学校の6年生たち100人が一人10個づつ、七里御浜海岸で拾った石に、それぞれ思うことばを書いて、李基允氏と裵相度氏の墓に敷き詰めました)。

 ■紀州鉱山でなくなった朝鮮人を追悼する集会 11月10日
 紀州鉱山でなくなった朝鮮人を追悼する第12回目の追悼集会をおこないました。
 この日、追悼集会の前に、2015月8日に除幕式をおこなった「조선인추도비 」「朝鮮人追悼碑」の文字に、黒で墨入れをしました。通りから見ると、石に彫られた文字がはっきりと見えるようになりました。
 石に濃紺の色で書きいれた紀州鉱山で亡くなった35人の名前は、色が薄くなってきたものもありましたが、近くに住む会員が塗りなおしてくれていました。
 この日、一本の赤い椿を植えました。
 数十人の参加者が、「追悼の場」で、追悼碑、名前が書かれた石をかこみ、追悼の集まりが進められました。
 開会のあいさつのあと、献花、献杯をし、参加者一人ひとりが追悼碑前での思いをのべました。 

 2019年11月9日~10日、熊野市民交流センターで展示していたパネル展で、アンケートに書いてくださった内容を紹介します。
★とおりがかって、展示を見てくださった熊野市民の方
 「以前から、木本事件については知っていましたが、海南島でのことは、初めて知りました。日本は、被害の歴史だけでなく、加害の歴史も、冷静に、受け止めねば、と思います」。
★会場に来て知った70代の熊野市民の方
 「こうゆう事件があったのは初めて知った。よい勉強になります。
  これからも頑張ってください。応援します」。
                                 金靜美 記
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2018年の追悼集会報告

2020年11月06日 | 集会
■2018年の追悼集会報告■

■李基允氏と裵相度氏を追悼する集会  11月17日
 李基允氏と裵相度氏を追悼する碑の前で、第25回目の追悼集会をおこないました。
木本隧道の木本口左崖上の追悼碑は、建立から24年という年月をへて、雨水がしみ込んだのか、黒い筋がはいり、渋みを増して周りのみどりの風景とよりなじんできたように思います。
 いつものように、開会のあいさつのあと、献花、献杯をし、参加者一人ひとりが追悼碑前で、1年の報告をしました。
 その後、木本隧道を歩き、笛吹橋、親爺町など「木本事件」の現場をたどりつつ、極楽寺に行きました。

■紀州鉱山でなくなった朝鮮人を追悼する集会 11月18日
 毎年、午前中は、紀州鉱山「現地調査」に行く人たち、「追悼の場」を整備する人たちの2つのグループに分かれます。紀和町の「追悼の場」は、まだ、みんなで完成させる途上にあります。近くの会員が手作りのベンチを置いていました。
 午後、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する第11回目の追悼集会をおこないました。
 数十人の参加者が、「追悼の場」で、追悼碑、名前が書かれた石をかこみ、追悼の集まりが進められました。
 開会のあいさつのあと、献花、献杯をし、参加者一人ひとりが追悼碑前での思いをのべました。
 追悼集会が終わったあと、ひさしぶりに、数人で板屋の共同墓地に行きました。こ
には、石原産業がつくった火葬場、地元の人の証言で、朝鮮人の遺骨が埋まっているといういくつかの石の墓標があります。

 両日、熊野市民文化交流センターでは、「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、海南島への日本侵略、熊野地域と「大逆事件」などにかんするパネル展示をおこないました。
                                 金靜美 記
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12回目紀州鉱山、26回目李基允さん裵相度相度さんの追悼集会に参加して

2020年11月06日 | 紀州鉱山
■12回目紀州鉱山、26回目李基允さん裵相度相度さんの追悼集会に参加して■
                                    安西玲子 
■「ちかごー」のことなど
 「熊野は、今でこそ道がよくなったけど、昔は弟と山越えて走ったもんや」と、故金蓬洙氏がよく話してくれた。
 紀州鉱山? どこにあるの? 朝鮮半島からそんなところまで連れてこられ、食べ物や、生活用品なんてない中、どうやって働いてもらっていたの?
 強制連行の調査をしていた金蓬洙・金唱律兄弟とは、旧日本軍による被害女性の証言を聞く会で初めて会った。私の住む近くの飯場で、お父さんが仕事をしていらして住んでいたことがあり、懐かしいと言われて遊びに来てくれるようになり「ちかごー」と聞くようになり、ちかごーを見せて貰い驚きました。岐阜県のこんな山の中や、交通の不便な所に。それも一つや二つではない。これ程の蛮行があったことを慰霊碑や看板等建てて皆に知らせないのか?
 有名になってきた杉原千畝資料館の近くに巨大なダムがある街ではダム工事を見ていた人々が、こちらから見てると人間が蟻のように見えたと。落ちたりした人も一人や二人ではないとか。
 麻の袋みたいなのを着て虚な目をして歩かせられていた中国人捕虜の若い男の子を見たお婆さんが家に入りお握りを作り、渡していた。見つかったらお婆さんが大変な目に遭うのになどと証言してくれる人たちもいた等と話を聞いた。
 その後、岐阜で、戦後50年展をしたとき、岐阜市教育委員会が後援をおりた事で、私が「何故この展示がいけないのか、次回は教育委員会主催で平和展をして欲しい」などと投書していた矢先、岐阜県地下壕研究会を立ち上げるとなり、金兄弟からの誘いで入れて貰った。1997年。松江での八回目強制労働全国交流集会で金靜美さんにお目にかかったのもそのとき。何も知らない私が朴慶植先生などとお近づきになれたのもありがたいことだった。

■強制連行の恐ろしさ
 金兄弟がカトリック教会から頼まれてやっている強制連行慰霊はじめ大阪の夜間中学の修学旅行、外登法で案内を手伝わせて貰いいろんな方たちと知り合えた事は幸せだった。 
 しかし、強制連行の恐ろしさを知れば知るほど何故、ドイツのような教育ができないのか、と憤りばかりだ。 
 娘が六年生の時、交流集会で、「強制連行がなかった県は何県ですか?」と聞いたら、「いい質問ですね。でも、残念なことにどの県にもあったのですよ」との返事に驚き、中学の夏の研究で先の侵略戦争辺りの歴史をまとめ、お札をコピーし、何故、伊藤博文や、福沢諭吉をお札にするのか、と書いていた。
 同じころ旧日本軍による性的被害女性とも交流させてもらっていた。集会の後の片付け最中、幼かった娘がいなくなり、キョロキョロ探していたのをハルモニが見て、「ああ、私がいなくなったとき、お母さんは、私をどんなに探したことか」と号泣された時から交流が始まり、名古屋や岐阜での集会後は、子どもや畑のある我が家がいいのか泊まって下さるようになった。
 夜、畳は嫌と台所の片隅で寝る彼女を見ながら、何故、この人は年老いて辛い体験を「聞いてくれてありがとう」と加害国の人たちに頭を下げ、お土産を持ち、時には集会で「何故、今頃になって証言するんだあ、金目当てかあ」と浴びせられなければいけないのか、と寝顔を見ながら涙をこらえるのが精一杯の時もあった。
 一番辛かったのは、平和展にきた三菱挺身対の被害女性達が、私の娘に、「その人は身体を売った人。汚いからこちらへいらっしゃい、話してはいけない」と言われた時。私は、「同じ戦争の被害者と思って下さい」と頭を下げたが、挺身対の会報にも、同一視される危険性とあり、こちらの支援をやめさせて頂いた事もあった。
 韓国での水曜日デモ時の事。カンボジアに置き去りにされた被害女性が車椅子にのり故郷を探しにいらしていた。私は、思わず駆け寄り、「ごめんなさい」と言った途端、誰かが、「イルボン何とか」と叫んだら「わああ」と号泣された。私も泣きじゃくった。そしたら私の背中を撫で続けてくれた。叩かれたり罵られたりした方が気楽だったか。
 故郷は、見つかったのだろうか。
 翌日の帰国便の機内の新聞では、でかでかと二人の様子が出ていた。金蓬洙さんが、とても喜んで訳してくれた。
 韓国からの被害女性は、必ず金蓬洙さんが、通訳してくれた。通訳の最中、あまりの酷い体験に、言葉が詰まりハルモニに、「しっかりしなさい」と叱られた事も。皆が泣き笑いした。そのハルモニが、だんだん元気がなくなり「ヨボセヨ~?」と元気で電話をくれていた回数が減り訃報を聞き、見えない敵に向かい怒鳴りたい位であった。こんな日本の現状のまま天国へ行かせてしまった。

■金蓬洙・金唱律兄弟が亡くなってから
 ハルモニ達にお返しもお礼も何も言えないけど、朝鮮半島の方々と仲良くして私にできることをと金蓬洙さんと頑張ってきたが、弟の唱律さんを追うようにして1923年生まれのオモニをおいて他界してしまった。
 事あるごとに思いだし、二人が入院していた病院を通る度に胸が締め付けられるようだ。「田舎の野菜は美味しいなあ」「コーヒー入れたるわ、インスタントやけど。「由井さん(カトリック神父で指紋押捺や、強制連行跡地によく来てくれたひと)の所で飲むコーヒーは旨いなあ。ああいう人達がいたから俺らこうして活動してこれた」、「地下壕案内が入った、空いてる?」こんな声が聞こえてくるようだ。

■追悼集会の報告をした
 12月8日、地下壕見学のあとの忘年会ではなくて望年会にて追悼集会の報告をした。地下壕研究会でもフィールドワークで行った事があったため様子はわかってもらえるがあれだけのものに、落書きや破壊されるということがないのはすごい!
 皆さんのご尽力に感謝と喜んでいた。地下壕メンバーも年をとり、なかなか思うように動けないのと、来年還暦を迎える私がメンバーの最年少。
 この先を案じることもあるが侵略戦争の被害をとにかく伝え続け、なかった事にはさせない。
                              2019年12月記
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