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三竈島史調査の経緯

2016年04月18日 | 海南島史研究
■三竈島史調査の経緯■
                      蒲豊彦

■甘志遠の自伝
 私が三竈島に興味を持ちはじめて、もう十数年になる。グループで調査をするようになってからでも、すでに数年が経過した。その間、関係者はさらに高齢化し、すでに何人かは亡くなった。しかし幸い、これまでの調査によって、日中戦争中の三竈島についておおまかなイメージを得ることができた。そこで、ひとまず三竈島史の執筆に取りかかることにした。調査不足の点は原稿を書いてから補う、というやりかたである。
 この執筆に備え、これまでの調査の経緯を、私が直接関係したものに限ってまとめておきたい。そもそも私が三竈島を知ったのは1997年ごろのことだった。広東省の農村研究のために日本軍関係の資料を集めていたとき、海軍の戦友会を通して、甘志遠という人物を教えられた。第二次世界大戦中に香港の日本海軍と協力関係にあった、中国人海上運輸業者である。この甘志遠の自伝のなかに三竈島が現れ、すこし調べてみると、沖縄から農業移民が渡っているという。
 私はその自伝を整理したのち、内容をさらに補うため、この年、アメリカのヒューストンに甘志遠を訪ねた。甘は、二人の娘さんに世話をされ、夫人とともに療養施設で過ごす一人の老人だったが、目元にはかつての精悍さがまだ残っていた。まだ一人で歩くこともでき、また私と充分に話しをすることもできた。この時の調査は、2000年に『南海の軍閥 甘志遠』(凱風社)として出版することになる。甘志遠自身は、残念ながら私が訪問した翌年に亡くなった。

■沖縄
 こうしてこの調査は一段落したが、三竈島が気にかかったままだった。非常に興味深い話なのに、『沖縄県史』「移民」編にわずか数行の言及がある以外、研究も記録も見当たらないのである。そこでまず戦前の沖縄の新聞を中心にすこしずつ調査をすすめ、ある程度の概略を知ることができた。だが、移民の生存者については、まったく手がかりが得られない。そこで関係者を捜すため、『沖縄タイムス』に紹介記事の掲載を依頼した。
 2002年8月に、これが「軍事基地と農業開拓民」という題名で3回に分けて掲載されると、すぐに反応があった。小学生として家族について移民した喜納安武さんが、すでに関係資料を収集しはじめており、沖縄タイムス社に連絡してきたのである。こうして、本格的な調査の糸口をついにつかむことができた。この年の9月にはまた、防衛庁(旧)の戦史研究室で『三竈島特報』その他の基本資料を見つけることができ、この時点でひとまず、「日中戦争期沖縄の中国華南開拓移民団」をまとめた(これはのちに『海南島近現代史研究』第2・3合併号、2011年2月に発表)。
 そして11月には沖縄ではじめて喜納さんに会って「三竈島友の会」の会合に参加し、聞き取り調査を行った。この調査結果を組みこみ、2004年にはあらためて、中国の学術雑誌『抗日戦争研究』に「中日戦争時期在広東三竈島的日本農業移民」という論文を発表することができた。

■三竈島へ
 つぎは、三竈島自体の調査をしなければならない。この周辺のことを誰か研究していないか調べて見ると、和仁廉夫という名前が目についた。香港、マカオなどを専門にしているジャーナリストである。さっそく連絡を取った。2005年9月、中国珠海市のホテルではじめて和仁さんと会い、そのままいっしょに三竈島へ向かった。三竈島は現在の行政区画では珠海市に属し、また島とはいっても、いまでは完全に陸続きになっている。
 このとき、和仁さんの友人である張学煌さんが同行してくれた。香港の若い研究者である。この地域一帯は標準語ではなく、香港とおなじく広東語を話すため、広東語の通訳が不可欠である。またその後も、香港での和仁さんの人脈に、おおいに助けられることになる。こうして、はじめて三竈島で聞き取り調査をすることができたが、中国では、地方政府を通さないかぎり、資料の閲覧も、また本格的な調査もむずかしい。このときの調査は、鍵となる人物もわからないままの、いきあたりばったりのものになった。
 一方、沖縄ではその後、喜納さんが浦島悦子さんと出会うことになる。沖縄在住の浦島さんは、名護市史編纂室から依頼されて、同市の農業移民について聞き取りを行っていたのだが、そこに喜納さんが資料の提供を申し出たのである。浦島さんの調査は、その後『名護市史』本編5『出稼ぎと移民』Ⅲ(2008年)に収録される。私は喜納さんから紹介され、2007年9月、和仁さんとともに、沖縄で浦島さんにはじめて会い、三竈島移民の調査に協力してもらうことになった。
 2008年、中国側に正式に調査を申し込むが、回答が得られないまま、12月にふたたび三竈島に入った。このときは、和仁さん、張学煌さんのほか、浦島さんがはじめて同行し、また和仁さんの香港での友人である呉輝さんも加わった。出版社に勤務している女性で、日本語に堪能である。このとき三竈島ではほとんど何も調査できず、島の見学に終わってしまったが、我々の調査グループができあがったという点では、重要な年となった。沖縄は浦島さん、香港、マカオは和仁さん、私が日中戦争を含む中国史、そして張学煌さんと呉輝さんが香港などの同郷会からの聞き取りおよび、広東語通訳という役割分担である。最少かつ不可欠のメンバーだろう。
 2009年8月「NHKスペシャル 日本海軍 400時間の証言」が放送され、ここに、三竈島の島民虐殺にかんする海軍上層部の証言が、はじめて現れた。NHKはこの番組のために沖縄の移民や、また三竈島でも取材をしており、その際、私も協力を依頼されているが、この放送は、三竈島という名前をはじめて広く伝える役割を果してくれた。ただ、非常に残念なことに、この年、喜納安武さんが亡くなり、沖縄での調査の核となる人物を失うことになる。

■人脈の構築
 同年9月には、喜納さんを欠いたまま、沖縄でさらに聞き取りを行い、12月には、ふたたび三竈島を訪問した。このとき私は、香港の魏福栄さんを知ることになる。かつての三竈島島民で、戦後、香港で偶然に沖縄移民と再会し、交流を続けていた人物である。この名前は喜納さんからはやくに聞いていたが、それを和仁さんが探し出した。
 当時小学生だった魏さんは、日本軍が作った学校で日本語を勉強し、いまでも流暢である。そして昔のことを非常によく憶えており、私の聞き取り調査はいまのところ、実質上、魏さんへの調査となっている。魏さんはまた、現在でも三竈島と関係を保っており、三竈島調査の鍵となる人である。この12月に魏さんの案内で、和仁さん、呉輝さん、張学煌さんとともに三竈島で調査を行い、島民からも聞き取りをした。このとき、珠海市政府の幹部から食事に招待され、今後全面的に協力すると告げられた。
 2009年はまた、私たちが台湾の羅時雍さんとも接触できた年である。羅さんは日本海軍の通訳として召集されたのち、三竈島の航空基地へ配属になり、中国人児童の小学校で教師をした人物である。詳細な手記を残しており、私たちの調査にさまざまな手がかりをあたえてくれる。この羅さんも和仁さんが見つけ出したのだが、翌2010年に亡くなり、私は会うことができなかった。2010年の3月と12月には、かさねて香港で魏さんから聞き取りを行い、また珠海市に入った。この12月には、やはり和仁さんが捜し出した湯洪青さんから話を聞くことができた。湯さんの父親は、日本軍と島民との橋渡し役となった重要人物である。この聞き取りでは、香港史の専門家である高添強氏も同席された。
 2011年3月には、魏さんの紹介で、ニューヨークの三竈島同郷会を訪問することができた。三竈島を脱出したあと、難民生活のなかで家族がどのようにつぎつぎと死んでいったのかなど、島外へ逃れた人たちの状況を知ることができた。おなじく3月にはさらに沖縄で聞き取りを重ねている。
 さて、私がこの問題に本格的に取り組むようになってから、今年で十年ほど経過したといってよい。そろそろ結果をまとめ、これまで調査に協力していただいた沖縄や三竈島の人たちにそれを示すべきだろうと、考えている。
                              2011年6月14日
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