三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本人研究者の植民地支配責任―海南島の場合 3

2016年04月16日 | 海南島史研究
■日本人研究者の植民地支配責任―海南島の場合

                                斉藤日出治

むすび 日本人研究者の戦後責任
 軍事占領下で、日本軍と統治機関の支援のもとで、あるいはその要請を受けて、「学術調査研究」に邁進した日本人研究者は、戦後になってみずからが戦時中におこなった「学術調査研究」が植民地統治や侵略戦争に果たした意味を問うたふしはみられない。ほとんどの研究者がこの内省を欠落したまま、戦後、研究の対象を別のところに移して同じ研究態度で研究を継続した。
 正宗厳敬は、戦前に台湾、ボルネオ、海南島などの日本の植民地・占領地で植物誌の研究をおこなったが、戦後は小豆島など国内の植物を研究している。動物の分類調査を行った平坂恭介は、戦後に「台湾淡水生物相の研究」「アフリカマイマイのその後」といった研究に従事する。尾高邦雄は、戦後産業社会学、労働社会学、職業社会学の分野で、労働を通した人間関係の研究に取り組んでいる。
 これらの研究者たちは、軍事占領下の海南島における植物、動物、あるいは黎族の経済組織を学術研究の対象として「客観的に」考察し、「写実主義的に」模写したわけではない。みずからの研究が日本による海南島の統治政策の活動の一環であり、統治政策に寄与することを自覚し、その統治政策を実効力のあるものにするために、その課題をみずから主体的に引き受けている。
 そうである以上、この日本の統治政策が海南島のひとびとの暮らしに実際に何をもたらしたのかについてみずから検証し、みずからが主体的に引き受けた活動が海南島のひとびとに何をもたらしたのかを明らかにし、そのような結果を招いたことに対するみずからの責任を問う必要がある。だが、これらの研究者は敗戦後にそのような過去のみずからの「学術調査研究」の意味を問い直そうとはしなかった。海南島の統治政策は、「アジアの解放」のためなどではなく、日本の南方への軍事的な拡大政策を遂行しようとして、その為に必要な島の食料・資源・土地を収奪し、また軍事作戦の遂行のために島民を労働に駆り立て、それに非協力的な、あるいはそれに抵抗するひとびとを無差別に殺害する、というものであった。日本人研究者はその統治政策の実態を明らかにしないばかりか、みずからの「調査研究」がその統治政策の一環を担うものであったことを語ろうとはしなかった。この態度は、海南海軍警備府の元軍人が敗戦後の日本でみずからの犯した罪を黙秘したまま通した態度と相通ずるものではないだろうか。日本人研究者が海南島で行った「学術調査研究」を純粋な学問として侵略犯罪から切り離すことは、侵略犯罪を否認し、その黙殺を図る行為に研究者が加担することにならないだろうか。

★海南島占領以前の「調査資料」
 台湾総督府専売局[1918]『海南島事情』
 台湾総督府官房調査課[1922]「海南島調査経過摘要」
 村山勝太編[1922]『海南語初歩』台湾総督府官房調査課
 村山勝太[1922]『海南島事情第三』台湾総督府官房調査課
 平間惣三郎[1929]「海南島に於ける農産業調査」台湾総督官房調査課 南支那及南洋調査157号
 李承三[1929] 「広東海南島北部地質鉱産」『摘印地質年報』第2巻上冊、広東地質調査所 
 台湾総督府熱帯産業調査会[1937]『最近の海南島事情』熱帯産業調査会叢書第4号、5月10日発行
  
■海南島占領期の調査・「学術研究」資料
 井上謙吉[1939]「現下の海南島」『厦門、広東、海南島』南方文化経済研究会、所収
 賀来佐賀太郎[1939]「台湾と海南島―明石総督の海南島開発計画」『台湾時報』232号
 勝間田義久[1939]「最近の海南島経済」『厦門、広東、海南島』南方文化経済研究会
 勝間田義久[1939]「海南島」『厦門、広東、海南島』南方文化経済研究会
 東洋協会調査部[1939]「現下の海南島事情」2月22日発行
 平山勲[1939]『海南島』南洋協会台湾支部
 中村賢太郎[1939]「造林学上より見たる海南島」『日本林学会誌』21巻9号
 中村賢太郎[1939]「海南島に於けるゴム栽培事情」東亜技術連盟
 大日本製糖株式会社農務部[1939]「海南島農業及製糖業概観」11月
 林纘春[1939]「海南島の農産食糧調査」南支派遣軍調査
 柴田、玉城[1940]「南支那海汽船トロール並ニ機船底曳網漁業現勢調査」東亜研究所第1部自然科学班
 愛知県水産試験場[1940]「海南島漁業調査報告」6-7月
 岡田春夫[1940]『海南島踏破記』政経倶楽部
 松尾弘[1940]「海南島調査紀」『一橋論叢』第5巻第1号
 外務省通商局[1940]『海南島農業調査報告』台北商工会議所
 台北帝国大学[1940-1941]『台北帝国大学第1回海南島学術報告』台湾総督府外事部調査資料第五十
 金関丈夫[1941]「海南島風俗習慣故事伝説集録」横須賀鎮守府第四特別陸戦隊、4月
 金関丈夫(台北帝国大学医学部解剖学教室)[1942]「海南島住民の人類学的研究 海南島住民の手掌理紋に就いて」
 金関丈夫[1942]「海南島東南部漢人の後頭扁平に就いて」『人類学雑誌』第57巻第1号(山口敏編『日本の人類学文献選集』第8巻「昭和前期の研究者」クレス出版、2005年)
 金関丈夫[1942]「海南島侾族頭蓋の一例」『人類学雑誌』第57巻第6号
 台湾総督府外事部[1941]「海南島農林業開発参考資料」
 台湾総督府外事部[1941]「殖産局調査団報告書」
 台湾拓殖株式会社[1941]「海南島ニ於ケル錫鉱事業ノ現状」
 台湾拓殖株式会社[1941]「海南島陵水県ニ於ケル農村経済並ニ一般慣行調査」
 市原豊吉[1941]『海南南島農業調査報告書』外務省通商局第3課
 水越幸一[1941]「海南島開発事情一般」『経済倶楽部講演』12月東洋経済新報社
 熊丸徹[1941]「海南島の鉄鉱資源に就て」『鉄と鋼:日本鉄鋼協会会誌』27巻9号
 永田武雄[1941]「海南島土壌調査報告」『日本土壌肥料学雑誌』15巻12号
 田中薫[1941]「海南島視察記」(其の一)(其の二)『国民経済雑誌』70巻6号、71巻4号
 日本油糧統制株式会社[1941]「海南島油肥及び油肥原料資源調査」
 八田與一[1941]「海南島の土地改良」『海南島農林業開発参考資料』台湾総督府外事部、9月
 海南海軍特務部[1942]「海南島産業開発の現況と将来」6月
 台北帝国大学海南島学術調査団編[1942]台北帝国大学第一回海南島学術調査報告 1班(生物学班)2班(農学班)3班(地質学班)台湾総督府外事部
 平坂恭介[1942]『海南島の動物概説』台湾総督府外事部調査
 長西広輔ほか[1942]「海南島産醗酵微生物に就いて(予報)」『醸造学雑誌』20巻5号
 青木茂[1943]「海南島の開発と台湾」『台湾経済年報』台湾経済年報刊行会
 岡田謙[1944]『海南島黎族の社会組織』海南海軍特務部
 尾高邦雄[1944]『海南島黎族の経済組織』海南海軍特務部
 蒔田徳義[1943]「海南島の豚に関する研究」台湾総督府農業試験所彙報219号
 中村賢太郎[1943]「海南島に於けるせんだん(棟)の造林」『日本林学会誌』25巻3号
 日下和治ほか[1943]「海南島田独産鉄鉱石及仏印産無煙炭を原料とする回転炉海綿鉄製造法の研究」『鉄と鋼:日本鉄鋼協会会誌』29巻2号
 鮫島宗堅ほか[1943]「航空写真調査に依る海南島の森林」『日本林学会誌』25巻12号
 秀島達雄[1943]『香港・海南島の建設』松山房
 小澤準二郎[1944]「海南島植物誌料[1](1森林植物)」『日本林学会誌』26巻5号
 服部金太郎[1944]「海南島に於ける牧野林の造成に就て」『日本林学会誌』26巻3号
 服部金太郎[1944]「海南島の松に就て」(2 造林)『日本林学会誌』26巻3号
 東亜研究所第1部自然科学班[1939]「海南島ノ農業」
 中山正章[1944]「海南島の食用植物」『演習林』6号、東京大学農学部
 中山正章[1944]「海南島に於ける自生靱皮繊維植物に就いて」『演習林』6号、東京大学農学部
 正宗厳敬[1944]『海南島植物誌』台湾総督府外事部調査
 海南海軍特務部経済局海軍技師水野卯一[1944]『五ヶ年間に於ける海南島農業開発概観』東亜研究所『海南島の民族と衛生の概況』(発行年不詳)

★参考文献
 趙従勝[2010a]「前期海南島調査事業」『東洋史訪』第17号、史訪会
 趙従勝[2010b]「戦前期日本人の海南島農業調査(一九三九年-一九四〇年)」台湾研究会報告資料12月
 山路勝彦[2006]『近代日本の海外学術調査』山川出版
 胎中千鶴[2015]『植民地台湾を語るということ―八田輿一の「物語」を読み解く』風響社
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