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日本人研究者の植民地支配責任―海南島の場合 2

2016年04月15日 | 海南島史研究
■日本人研究者の植民地支配責任―海南島の場合

                                斉藤日出治

二 侵略統治の言説としての「学術調査研究」―尾高邦雄の場合
 海南島で行われた「学術調査研究」は、日本軍の統治政策や統治機構から切り離してみるとき、観察の対象を突き放して対象を模写する客観的な分析であるかのようにみえる。そのために、山路勝彦『近代日本の学術調査』[2006]は、たとえば台湾の「蕃族」の慣習調査や朝鮮の民間信仰の調査に従事する日本人の研究者の研究姿勢を、「客観的」で「写実主義的」だと言う。
 「その方法は禁欲的なまでに客観的であった」(同書30頁)、あるいは「素朴なまでに事実を書き写そうとする態度」であり、「写実主義」の精神」(同書32頁)に満ちている、と。ただし、「大学という専門機関だけに、そこでの調査は純学問的であったけれども、植民地での調査には特別の意図が時として隠されていた」(同書63頁)、と。植民地における研究者の「学術調査研究」は、基本的に「客観的」「写実主義的」で「純学問的」であったが、時としてそこには政策的な意図が込められている、と言うのである。
 山路は、海南海軍の嘱託として海南島の先住民黎族の社会組織、経済組織を調査した岡田謙・尾高邦雄の研究を取り上げ、この研究についても、「純学問的調査」(同書87頁)であり、「客観的記述をとりながら、対象となる住民をあたかもガラス張りの向こうにいる被試験者のように策定した」(同書88頁)ものである、と結論づけている。
 だが、学問研究における観察主体と観察対象とのこの関係には、日本の植民地統治下で日本軍の委託を受けて調査研究する「調査者」が「被調査者」に向けるまなざしに貫かれている。「調査者」と「被調査者」との関係には、その背後に植民者と被植民者、統治者と被統治者との関係が潜んでいる。研究者のまなざしとは、「調査対象」を支配する政治的実践の様式であり、「純学問的で写実主義的な」まなざしというかたちをとって、植民者と被植民者の関係が組織されていると言える。
 尾高の研究は、註[3]で既述した松尾弘のように海南島の住民をあらかじめ「文化的段階が低い」と断定し、その先入観を前提として外部から住民を観察するのではなく、黎族社会の共同生活の内部にたちいり、その生活様式、文化、労働、生産技術、儀礼などの考察を踏まえつつ、黎族のひとびとを日本による海南島の統治に向けてどのように動員するか、という問題意識に貫かれている。つまり、尾高の言説は、日本による海南島の統治を正当化するためというよりも、むしろその統治を深化し有効なもの足らしめようとする政治的な意図に貫かれている。
 尾高の研究は、全体が七章からなり、第一章で「調査地概況」として選んだ「楽東懸重合盆地」の先住民の黎族居住地の環境・住民・人口・移住の歴史を紹介した後、第二章「衣食住の様式」、第三章「生産技術」、第四章「労働」、第五章「所有」、第六章「交換」、第七章「生産と儀礼」という構成をとっている。この著述は一見すると「純学問的」で「事実をそのまま書き写す「写実主義」の著述であるかのように見える。だが黎族の経済組織にたちいって、生活様式、生産技術、労働、交換、儀礼の内的編成を考察する尾高のまなざしには、日本が海南島住民を統治しようとする政治的姿勢が明白である。
 なによりもまず、尾高は、「海軍嘱託、東京帝国大学講師」という肩書で、東京帝国大学の研究職につきながら海軍の委託を受けて、この調査に従事している。そしてその書の序言で、海軍から委託を受けた調査の目的をこう記している。
 「今回の調査の目的は、現時海南島における理黎政策の一資料を得んがため、黎族社会組織及び経済組織の実相を究めんとするにあった」(尾高邦雄[1943]3頁)。
 つまりそこでは、「黎族社会組織及び経済組織の実相」を究める学術調査研究の目的が、日本軍による黎族の統治政策にあることが明記されている。尾高はさらにこの学術調査研究が、「治安策」と「開発策」という二つの政策課題に応えるために急務である、と述べている。「治安策」とは「黎界を以つて漢族殊に敵匪に対する緩衝地帯と」とすること、及び「軍事基地背後の安定を図る」ことであり、「開発策」とは、「黎界資源の利用のみならず、黎族そのものをして開発労働力の補給源たらしめ」ることである(同書3頁)
 このような「治安策」と「開発策」を実施するために、「黎族事情に関する学術的調査を必要とし、別してその社会並に経済事情に関する社会学的実態調査を必要とする」。尾高と岡田謙は「この目的に応ぜんがため此度黎族調査を委嘱され」「調査に従事した」(同書3頁)のである。
 しかも、尾高はこのような軍事戦略と「学術研究」とが直結した事態を「希有なこと」と言いつつ、その事態を歓迎してこう言う。
 「かかる戦地において社会学者が実態調査を行った例は未だない」のであり、「学問報国のため貴重なる機会と便宜を與へられたことを感謝する」(同書4頁)、と。
 「戦地」で「学問研究」をするという好機を与えられた、と謝意を述べ、学問研究が侵略統治とは切り離された自立した活動であるかのように言いつつ、その活動が侵略統治の実践を担うものであることが巧みに隠ぺいされている。
 だが、「理黎政策の一資料を得」るためという尾高が設定する調査の目的は、当然のごとく調査の内容や構成にまで反映される。尾高は黎族の経済組織の考察の主要課題としてつぎの六点を挙げている。
   一 日常生活における「衣食住の様式」
   二 衣食住を生み出す「生産の技術」
   三 生産技術を生み出す労働の組織と労働に就いての観念
   四 労働の前提をなす所有の形態
   五 所有権を移転させるための「交換の様式」、および「営利の観念」
   六 「生産と儀礼」「経済と宗教」の関係
 そして、この六点の「問題に答へることは、・・・いづれも前記理黎政策に貢献する」(同書4頁)ためである、尾高はそう言い切る。つまり、日本が黎族を統治するために、黎族の経済組織を六つの視点から究明する必要がある、と言うのである。
尾高はさらに調査の目的を遂行するために、この研究で特に留意すべき課題を三点挙げている。
   一 黎族の経済組織がいかなる「文化段階」に属するのか。
   二 経済面から見て、黎族は漢族等の「敵匪」に対する緩衝地帯として利用することがで
    きるか否か。
   三 黎族は黎族地域の資源開発の労働力としてどの程度評価しうるか。
 尾高は「日本による黎族の統治にとって自分の研究がどの程度役に立つかどうかは不明だ」が、と断りつつも、自分の研究がその統治のために貢献すべく設定され、遂行されていることを明言し、みずからの研究がその統治に貢献することを望んでいるのでいる。
 尾高は黎族の経済組織を日本による海南島の統治という視点から考察し、この考察を通して黎族を日本の統治政策にいかにして動員するか、という関心から考察を進める。
 この三つの課題について、尾高は「結語」でつぎのような結論を下している。
第一の黎族の「文化程度」については、「原始文化」「中級文化」を越えて、犂耕段階の「高度文化」(同書165頁)に達している。だがその反面で「武器や武装に対する興味の欠如」が、彼らの民族的自負心の衰退を意味」し、「己の伝統に対する尊重の念」や「民族精神」が欠乏している。それは彼らの「無気力、向上心の欠乏」のうちに現れている(同書166頁)、と[6]。
 また尾高は黎族の社会が「支那文化の影響」を強く受けていることを指摘したうえで、この「支那化」をただちに「日本化」に置き換え、かれらの生活慣習や生活技術を強制的に「日本化」するのではなく、「黎族自身の伝統と生活秩序を十分に理解」し、「この十分な理解の上に立って彼らを適切に指導する」よう提言する。
 そして、日本が「黎界をして敵匪に対する緩衝地帯たらしめ、軍事基地背後の安定を図ろうとするならば、彼らに対してその自治を可能ならしむるに足る便宜を與へ」「農具その他生産上の必需品を與へて彼らの生産力を増強することが必要」(同書167頁)だと訴える。
 ここには黎族の自治能力を高め、生産力を増強することが黎族を「敵匪に対する緩衝地帯」にするための最善の道だという、日本の統治政策に関する尾高の提言が示されている。
 たしかに、尾高はほかの学術研究者に比してはるかに対象に内在した研究を試みている。「序言」で尾高は自分の研究がシュテューベルの『海南島の黎族』に多くを負っているとしたうえで、尾高の研究がシュテューベルには欠けている「黎族の形造る人間関係の特質を内面的に把握」(同書7頁)し、海南島の先住民の個々の習俗を「珍奇なる」ものとして「その発生の地盤より切り離して徒に珍重」するのではなく、「共同生活の全体よりその機能と意義を理解去るべき」だと言う。
 この研究姿勢は、学問研究に誠実な知的態度であるかにみえる。だが、尾高が黎族の人間関係を内面的に把握しようとするのは、黎族の内在的な理解をてこにして、黎族のメンタリティにまで立ち入って、黎族のひとびとを日本の統治政策に動員するための可能性を徹底して追求しようとするからにほかならない。
そのことは、黎族を「労働力の補給源」(同書167頁)として高く評価する尾高の視点に最もよく表れている。尾高は黎族を評価する理由として、「黎族は漢族に比して体力も優れ、マラリアに対する抵抗力も強く、且つ性質は穏和誠実であるから、人的資源としての資格は漢族に優るとも劣ることはない。」(同書167頁)ことを挙げている。それでもなお、黎族の労働意欲が低いとすれば、それは「営利観念の欠如と軍票に対する無関心」(同書167頁)に起因している、と尾高は言う。
 そこで尾高は、この黎族の「営利観念の欠如」について、第六章の「交換」でその理由を解き明かそうとする。この章では「所有権の移転としての交換」が扱われるが、その交換が「黎族間の交換」「漢族との交換」「邦人との交換」の三種類に分けられて考察される。そして「邦人との交換」では、石碌鉱山で黎族を労働力として補給し軍票を支払う交換が扱われる。尾高は、黎族の軍票に対する「識別力」がきわめて弱く、軍票への関心が薄い、と述べ、その原因を「営利観念の欠如」(142頁)に求める。
 黎族は「いはゆる文明人の如く『金儲け』の観念に導かれて働くのではない」(142頁)。そのために、石碌鉱山で軍票の支給額を増やしたとしても、黎族の労働意欲を高めることはできない。黎族は軍票を手に入れるために鉱山で労働するよりも、むしろ「先祖伝来の田畑で祖先伝来の方法で、平和に農耕に従事することの方を好む」(同書143頁)からである。
 尾高はこれを黎族の「保守主義」的態度とみなす。そしてこの態度は、「土地所有の観念の希薄さ、文明品に対する嗜好の幼稚さ、そして彼らの一般的無気力」(同書143頁)に起因するものとして、否定的なものと評価する。この評価のしかたのうちに、尾高のまなざしが植民地統治者の利害関心に貫かれていることが語り出されている。黎族の「一般的無気力」にみえる態度は日本の統治にとって不都合であるがゆえに、否定的な評価が下されるのである。
 尾高は黎族の経済組織が近代の市場経済と異なる価値規範にしたがって組織されていることを認識している。かれはそれを「営利観念の欠如」というかたちで了解する。そして、黎族に対するそのような理解を踏まえて、黎族の態度を日本による統治に向けていかに変換するかを検討する。
 黎族は「勤労意欲に欠ける怠け者」ではないし、生理的欲求にしたがってやむを得ず働くのでもないが、かといって営利観念が欠如しているために金儲けのために働くのでもない。それゆえ軍票の支払いを増やしても黎族の労働意欲を刺激することはできない、そのような黎族をどうしたら日本の資源開発のための労働力として動員することができるのか、尾高の関心はそこに集中する。
 そこからつぎのような提案が生まれる。「若し黎界をして敵匪に対する緩衝地帯たらしめ、軍事基地背後の安定を図ろうとするならば、彼らに対してその自治を可能ならしむるに足る便宜を与えなければならない。特に農具その他生産上の必需品を与えて彼らの生産力を増強することが必要」(同書167頁)である、と。
 黎族の経済組織を解体するのでなくその経済組織を温存・強化しながら黎族の自治能力を活かしつつ、黎族の経済組織のエネルギーを日本軍の統治政策へと誘導していく、このような戦略の必要性を尾高は提起していた。尾高の学問的なまなざしは、日本のアジア侵略のための統治政策に黎族の経済組織を取り込んで動員するためにはどのような施策が適切なのか、という政治的関心に沿って明確に方向づけられていたことがわかる
 そしてこのような思考は、黎族の民衆が日本の統治政策を拒否し、かつ統治政策に抗する闘争に立ちあがるとき、あるいは黎族の民衆が「労働力源」として役立たないことが明確になったとき、かれらは一掃殲滅の対象に転ずることを意味する。黎族の社会生活に内在した学的認識の姿勢は、統治の対象とならない異質な要素を排除しせん滅するという政策と背中合わせになる。
 そして事実、この動員と殲滅という二つの戦略が海南島の統治の過程で同時並行的に進められた。海南島では、住民を開発と統治政策に向けて強硬に動員する過程と、日本軍への服従を拒否する住民、あるいは抵抗する住民を無差別に殺害する過程とが同時進行したのである。
 尾高の研究が語り出しているのは、「学術研究者」が「純学問的」な態度で植民地住民を対象化し「客観的に記述する」という姿勢こそ、日本の植民地統治政策に一掃深く内在して寄り添う営みだ、ということにほかならない[7]。
    [6] 「武器や武装に対する興味の欠如」を「民族的自負心の衰退」と見なす尾高
      の判断はどこからきているのであろうか。近代以降に軍事力を最優先した富国強
      兵策をとり、その軍事力でアジアへの侵略戦争へと突き進んだ日本こそが「民族
      的自負心」のある国だと、尾高は考えているようだ。武器や武装に関心をもたえ
      ない民族は民族的自負心が衰退している、ときめつける判断は、とてもまともな
      ものとは思えない。
    [7] 研究者の「学術調査研究」のまなざしにはらまれる植民者と被植民者の関係から
      切り離して、「学術調査研究」を純粋な学問研究であるかのようにとらえるとき、
      その「調査研究」は植民地の経済発展に貢献したという神話が生まれてくる。
       台湾総督府の土木技術者で台湾の烏山頭ダムの建設に携わり「台湾農業の大恩
      人」と評価される八田輿一(1886-1942年)の物語もそのようにして仕立てあげられ
      た。烏山頭ダムの大規模水利事業は、日本が植民地台湾を自国の食料供給源とす
      るための開発事業であり、八田のまなざしはこの植民者と被植民者との関係を組織
      する実践であったにもかかわらず、八田を評価する物語からはその視点がすっぽり
      と消去されている。八田は同じまなざしで海南島の「農業開発」にも臨んだ。
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