三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 39

2013年02月24日 | 「朝鮮報国隊」
■2007年1月4日
 2006年12月28日から2007年1月25日までの4週間、紀州鉱山の真実を明らかにする会は12回目の海南島「現地調査」をおこなった。
 そのとき、2007年1月4日に、「朝鮮村」を訪問した。2006年5月はじめの「試掘」のときから8か月が経っていた。
 「朝鮮村」をはじめて訪れたのは1998年6月だったが、それから8年半の間に、「朝鮮村」もその周辺もおおきく変わった。
 前年5月2日の「試掘」は、複雑な地権問題を現在の地権者の協力を得てのりこえ、日本政府の責任回避を許さず、韓国の真相糾明委員会の無為を放置せず、「埋葬地開発」の危機を事前に回避しようとして試みたものであったが、開始後すぐに三亜市外事部に妨害されて中断せざるを得なかった。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、全面的な「発掘」の前提としての「試掘」を再度おこなおうとして努力を重ねてたが、日本がこれまで隠しつづけてきた侵略犯罪を、わたしたちのような小さな民衆組織が、国家間の政治的諸関係の網をつきやぶって、発掘という手段で明らかにすることは、簡単ではなかった。
 2007年1月4日、「朝鮮村」のなかの朝鮮人の遺骨が埋められている広場には、風が吹き、牛が草を食べていた。8か月前、クイをうった跡も土を掘ったあともなくなっていた。
 「朝鮮村」は、急速に変わろうとしていた。
 このまま、放置しておけば、この地がとおくない時期に「開発」され、犠牲者の遺骨が土塊とともに放棄されてしまい、日本国家の侵略犯罪の証拠が消されてしまうことになると感じた。
 このブログの2007年1月4日の「「朝鮮村」で」をみてください。
                                         佐藤正人
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