■2007年1月4日
2006年12月28日から2007年1月25日までの4週間、紀州鉱山の真実を明らかにする会は12回目の海南島「現地調査」をおこなった。
そのとき、2007年1月4日に、「朝鮮村」を訪問した。2006年5月はじめの「試掘」のときから8か月が経っていた。
「朝鮮村」をはじめて訪れたのは1998年6月だったが、それから8年半の間に、「朝鮮村」もその周辺もおおきく変わった。
前年5月2日の「試掘」は、複雑な地権問題を現在の地権者の協力を得てのりこえ、日本政府の責任回避を許さず、韓国の真相糾明委員会の無為を放置せず、「埋葬地開発」の危機を事前に回避しようとして試みたものであったが、開始後すぐに三亜市外事部に妨害されて中断せざるを得なかった。
その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、全面的な「発掘」の前提としての「試掘」を再度おこなおうとして努力を重ねてたが、日本がこれまで隠しつづけてきた侵略犯罪を、わたしたちのような小さな民衆組織が、国家間の政治的諸関係の網をつきやぶって、発掘という手段で明らかにすることは、簡単ではなかった。
2007年1月4日、「朝鮮村」のなかの朝鮮人の遺骨が埋められている広場には、風が吹き、牛が草を食べていた。8か月前、クイをうった跡も土を掘ったあともなくなっていた。
「朝鮮村」は、急速に変わろうとしていた。
このまま、放置しておけば、この地がとおくない時期に「開発」され、犠牲者の遺骨が土塊とともに放棄されてしまい、日本国家の侵略犯罪の証拠が消されてしまうことになると感じた。
このブログの2007年1月4日の「「朝鮮村」で」をみてください。
佐藤正人
2006年12月28日から2007年1月25日までの4週間、紀州鉱山の真実を明らかにする会は12回目の海南島「現地調査」をおこなった。
そのとき、2007年1月4日に、「朝鮮村」を訪問した。2006年5月はじめの「試掘」のときから8か月が経っていた。
「朝鮮村」をはじめて訪れたのは1998年6月だったが、それから8年半の間に、「朝鮮村」もその周辺もおおきく変わった。
前年5月2日の「試掘」は、複雑な地権問題を現在の地権者の協力を得てのりこえ、日本政府の責任回避を許さず、韓国の真相糾明委員会の無為を放置せず、「埋葬地開発」の危機を事前に回避しようとして試みたものであったが、開始後すぐに三亜市外事部に妨害されて中断せざるを得なかった。
その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、全面的な「発掘」の前提としての「試掘」を再度おこなおうとして努力を重ねてたが、日本がこれまで隠しつづけてきた侵略犯罪を、わたしたちのような小さな民衆組織が、国家間の政治的諸関係の網をつきやぶって、発掘という手段で明らかにすることは、簡単ではなかった。
2007年1月4日、「朝鮮村」のなかの朝鮮人の遺骨が埋められている広場には、風が吹き、牛が草を食べていた。8か月前、クイをうった跡も土を掘ったあともなくなっていた。
「朝鮮村」は、急速に変わろうとしていた。
このまま、放置しておけば、この地がとおくない時期に「開発」され、犠牲者の遺骨が土塊とともに放棄されてしまい、日本国家の侵略犯罪の証拠が消されてしまうことになると感じた。
このブログの2007年1月4日の「「朝鮮村」で」をみてください。
佐藤正人
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