ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(310) かこがわと水害(11)・明治29年の水害

2020-08-16 10:13:45 | 大河・かこがわ

    明治29年の水害  

 大雨の時、当然「かこがわ本流」の水位は高くなります。

 そのため、「かこがわ」の支流からの取り入れ口の水門は閉じられます。

 曇り川(神野町)に、それをみましょう。

(*曇り川:日岡山の北を流れる「かこがわ」の支流)

 曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けられたという説まであるぐらいです。

 しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となります。

 こんな時は、「かこがわ」へ排水する水門は閉じられると、水の行き場がなくなります。

 曇り川の濁流は、曇り川が「かこがわ」に突き当たり、「かこがわ」の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、かこがわの町に水害をおこしました。

 加古川町の水害史のパターンは、この例がほとんどです。

 『加古川市史(三巻)』を引用したい。

 ・・・・1896年(明治29)、1897年(明治30)の両年、かこがわ流域では、水害により深刻な被害がありました。

 明治29年には、8月から9月上旬にかけて前線性降雨や台風により水害が頻発しました。

 この時の状況について、9月10日付『神戸又新日報』は、次のように伝えています。

 *以下は、その記事の一部ですが書き変えています。詳しくは『加古川市史・三巻』をご覧ください。

 ・・・6日より、曇り川が氾濫し、加古郡西部加古川町・氷丘村・鳩里村等の各村一円は浸水し、氷丘村ごときは一村450戸のうち400戸が浸水し、 茫々(ぼうぼう)たる湖の如し。

 人々は、寺院または高地に避難し田面はことごとく没した・・・・(no5060)

コメント
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