加古郡と印南郡の郡境の語ること
地図は、「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、現在の加古川市加古川町の部分だけを拡大したものです。
地図の加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村とその他の村との間に郡境があります。
この郡境は、聖武天皇の神亀三年(726)に創設されました。
郡境を決めるとき海・やま・川などがその基準になったと考えられます
その時、「かこがわ」は郡境に沿ったところを流れていたのでしょう。
そして、「かこがわ」の左岸側(西側)は印南郡、右岸側(東側)は加古郡と決められました。
ですが、なにせ「かこがわ」は暴れ川です。幾度となく大洪水をおこし、流路を変えました。
流路が現在のように定まってからも、加古川村・木村・友沢村・稲屋村は印南郡のままで、長く変更されませんでした。
江戸時代になり、これらの村々は印南郡に属しているとは言うものの地理的な関係から、加古川東岸の村々との経済的な結びつきを強め、何かと不都合なことがでてきました。
そのため、明治22年4月1日、全国的に新しい町村合併が行われ、加古川村、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を含む)、氷丘村が誕生しましたが、その時、加古川村・友沢・木村・稲屋村は、加古郡に編入されました。
「かこがわ」は、記録はあまり残されていませんが、洪水により幾度となく流路を変えたことを物語っています。(no5053)