ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(312) かこがわと洪水(13)・河川改修要求なる

2020-08-18 10:03:01 | 大河・かこがわ

     河川改修要求なる

 明治29・30年は、水害にみまわれました。

 そのため、加古川の本格的改修の要求が高まりました。

 明治31年、加古郡・印南郡の17ヵ村は、「加古川河身改修期成同盟」を結成しました。

 しかし、1904年(明治37)の日露戦争が、それに水をさしたのです。

 経費節減のため河川改修実現への動きは頓挫してしまいました。

 1907年(明治40)7月から9月にかけて、台風が次々来襲し、大きな被害をもたらしました。

 これをきっかけに、ふたたび河川改修要求の運動に火がつきました。

 その後、河川改修の運動はさらに高まり、1907年貴族院・衆議院で「加古川は、天下の大川ではないが、その被害ははなはだしく、人民の苦悩は計り知れない。

 だから、関係人民の苦衷を察し、加古川に河川法を施行し、相当の改修をして、安心して暮らせるようにして欲しい・・・」とする河川改修の請願が採択されたのです。

 この請願は、3月13日の衆議院請願委員会に、そして、22日に衆議院本会議にかけられ異議なく可決されました。

 加古川の水害の深刻なことが、中央の帝国議会で認められました。

 河川改修は、確実に動き始めました。

 地図は、1903年(明治36年)測量の五万分の一の地形図です。

流路は、現在とだいぶ異なっています。(no5062)

*『加古川市史(第三巻)』参照

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