ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(64) 飛鳥時代(1)・鶴林寺(1)、聖徳太子の創建ではない

2018-01-16 07:48:05 | お爺さんが語る郷土の歴史

    飛鳥時代(1) 鶴林寺(1)

 加古川に住む者としては、今日の鶴林寺の紹介は、おそるおそる書いています。

 鶴林寺やその檀家の方、そして加古川市観光協会等から、お叱りが聞こえてきそうだからです。

 加古川市史の一番よりどころは、『加古川市史』です。

 『加古川市史』で鶴林寺か所を執筆されたのは、神戸大学で長く教鞭をとられた(故)石田善人先生です。

 石田先生がお亡くなる少し前に、ある喫茶店でお話をしたことがあります。ものすごい博学な方でした。

 石田先生は、「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」とされています。

 でも、後に説明しますが、鶴林寺は歴史的に重要な寺ではないということではありません。

 鎌倉時代以来、鶴林寺が当地方ではたした歴史的役割は、あまりにも大きなものがありました。

     鶴林寺は聖徳太子の創建ではない

 鶴林寺は、その縁起によれば用明天皇二年(587)聖徳太子が秦河勝に命じて、ここに三間の精舎を建立し、高麗の僧恵便(えべん)を住持せしめ、百済の日羅(にちら)も当寺に住んだと伝えています。(鶴林寺縁起) 

 *用明天皇:聖徳太子の父

 「刀田山」という珍しい当寺の山号は、百済に帰国しょうとする日羅を聖徳太子が神通力で田に刀を林立させて妨げ、怖れをなした日羅に帰国を断念させたことによるといいます。

 用明天皇二年といえば、聖徳太子は15歳ばかりのころですから、幼児から聡明をもって聞こえた太子にしても、大和(飛鳥)から遠いこの地(加古川)に伽藍を建立させたとは思えません。

 ・・・中略・・・

 現在の鶴林寺の寺域からは、飛鳥時代はおろか奈良時代にまで遡りえる古瓦は全く発見されていません。

 このことは現在の寺域には奈良時代には寺院が存在しなかったことを示しているのでしょう。(『加古川市史・第一巻』参照)(no3844)

 *写真:鶴林寺仁王門

 ◇きのう(1/15)の散歩(11.146歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(38) かつめし提供の店

2018-01-15 08:14:34 | 加古川の味、かつめし

    かつめし提供の店

 現在、かつめしは加古川市やその周辺の150店舗以上で食べることができます。

 また、スーパーでは専用のたれが販売され、家庭にも普及し、学校給食のメニューにも取り入れられています。

 かつめしの魅力は、お店によってそれぞれのレシピがあり、こだわりの味があることです。

 最近では、ビーフカツやトンカツだけでなくチキンカツ、エビフライなどカツのバリエーションも増えてきました。変り種では、かつめしバーガーかつめしバーなども登場しています。

 それでは、かつめしを提供する店を、「かつめしマップ」(加古川市観光協会発行)を片手に出かけることにしましょう。

 なお、「かつめしマップ」は、大きなもので、別の機会に不工夫して提示させていただきます。

 今日は、別のかつめしのお店を紹介した地図を掲載します。

 

さっそく、食べ歩きをして、そのお店の味を紹介したいのですが、しばらく時間をいただきます。

 その間「ひろかずのブログ」は、「お爺さんが語る郷土の歴史」の続きに戻ります。(no3843)

 *地図:かつめしの店(加古川市観光協会提供)

 ◇きのう(1/14)の散歩(12.923歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(37) かつめしの歌

2018-01-14 08:09:33 | 加古川の味、かつめし

        加古川かつめし食べてね

                 作詞・作曲 岸田直美

                  歌   藤原一朗

 

    加古川かつめし食べてね

    キューとでおしゃれなお皿

    ホクホク白米 ふんわりと

    ビビッとくるくるビフカツのせて

    「ちょこっとやがなぁ」

    「となりに置いてみいなぁ」

    ホクホク茹でたキャベツで彩り

    デミグラスソースたっぷりぷりぷり

 

    加古川名物 

    加古川かつめし食べてアゴ落ちた

 

 ホクホク白米 ふんわりと、ビフカツ載せて、茹でたキャベツ

 デミグラスソースたっぷりと・・・・

 おいしそうですね。

 歌「加古川かつめし食べてね」にのせて、かつめしがもっと広がるといいですね。(no3842

 *写真:「りんどう」(加古川市加古川町木村)のかつめし

 ◇きのう(1/13)の散歩(10.837歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(36) 5月29日は「かつめしの日」

2018-01-13 09:12:56 | 加古川の味、かつめし

   5月29日は「かつめしの日」

 平成28年8月に「かつめしの日」の候補日を募集しました。

 市内外から103件の応募があり、選考委貴会を経て下記のように5月29日が「かつめしの日」に決定しました。

  【理由】

 「かつ」は、勝利を意味する「ビクトリー」の頭文字「V」をローマ数字に読み替えて5月とし、「にく」は語呂あわせから29日に設定しました。

 提案者には記念品として感謝状と、1万円相当の加古川和牛の目録が進呈されました。

 *「うまいでぇ! 加古川かつめしの会」の機関誌(no4)より

 *写真:かつめしののぼり

 

   三都主さん(サッカー元日本代表)

   「かつめし、加古川の牛肉などもPRしたい」

 神戸新聞(1/12)に、三都主さんが加古川市の観光大使に選ばれ、委嘱式で岡田康裕・加古川市長は「スポーツ振興につながるような事業にも協力してほしい」と期待。

 (三都主さんは)「ご当地グルメのかつめしを食べたことがある。

 そして、かつめしだけでなく、加古川の牛肉などもPRしたいと」応えています。(no3841)

 *加古川市長から、観光大使の委嘱状を受ける三都主アレサンドロさん

 ◇きのう(1/12)の散歩(11.056歩)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(35) がんばっています、かつめし宣伝隊

2018-01-12 07:25:15 | 加古川の味、かつめし

 

    がんばっています、かつめし宣伝隊

     2017 西日本B-1グランプリ in 明石

 昨年の11月25日・26日の2日間、明石公園において「2017 西日本B-1グランプリin 明石」が開催されました。

 この大会から新しく「加古川かつめし食べてね」の歌とそのダンスを披露。

 また、初めて「かつめしちゃん」と共演するなど、加古川市のPRとかつめしの販売を行いました。

 この大会に西日本から16団体が参加し、17万人以上の入場がありましたが、残念ながら、かつめしは入賞を逃し、課題を残しました。

 かつめしは美味しいのですが、加古川市の名前が、今のところ全国的にあまり知られていないことにもありそうです。

 これからは、「かつめし」とともに加古川市の知名度を上げていかなくては!

 何を仕掛けましょうか。(no3840)

 *文:「うまいでぇ! 加古川かつめしの会」機関紙no6より

 *写真上:「B-1グランプリ in 明石大会」前夜祭

   同下:頑張るかつめし宣伝隊のメンバー

  ◇きのう(1/11)の散歩(12.468歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(34) たれとカツへのこだわり

2018-01-11 07:24:06 | 加古川の味、かつめし

    たれとカツへのこだわり

 かつめしを特徴づけるのは、なんといっても独特のたれ。

 BAN-BANテレビ「かつめしあがれ」でも「甘味・酸味・コク・粘り」の4要素によって各店舗の個性が表現されると言っているように、ひと口にデミグラスソース風といっても、それぞれお店によって異なるこだわりが表れています。

 かつめしのカツといえぱ、牛カツです。

 牛肉も、加古川1市の特産品である加古川和牛を使用したものから、国産牛、外国産牛など様々。

 また、肉の部位によっても味と値段が異なり、各店舗の個性を決めるポイントでもあります。

 最近では、トンカツやチキンカツ、エビカツ、クジラカツなどを提供する店もあり、ブームとともにバリエーションも広がっています。

 しかし、生粋の加古川人にとっては、牛カツであることは譲れないこだわりのようです。(no3839)

 *文章、写真ともに「Kako-Style2」より

 *写真上:カツ、下、たれ

 ◇きのう(1/10)の散歩(10.620歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(33) かつめし宣伝隊

2018-01-10 07:31:17 | 加古川の味、かつめし

    かつめし宣伝隊

     「うまいでぇ!加古川かつめしの会」

 平成18(2006)年4月に寺家町活性化委風会から「じけまちかつぬし探検マップ」が、同12月には加古川観光協会から「かつめしマップ2006」が発行され、加盟店増加に合わせて現在まで改訂が続いています。

 近年のB綴グルメプームで、メディアでの露出度が増え、大手コンビニチェーン4社ではコンビ二弁当として商品化されました。

 そのパヅケーヅにプリントされているのが、加古川かつめしPRキャラクター「かっつん」と「デミーちゃん」でず。

 二人は平成20(2006)年、兵軍大学短期大学笑術デザイン学科の学生たちによって考案され、加古川かつめしを全圏にPRするという使命を持って誕生。

 平成21(2009)年にはベルデモール商店街に石橡が、平成22(2010)年には着ぐるみが完成していまず。

 また、B級グルメプームにのって全国的に加古川のかつめしをPRレようと結成された団体「うまいでぇ!加古川かつめしの会」が、平成25年(2013)年に開催された「B-1グランプリin TSUYAMA」に出展し,5位人賞を果たしました。

 平成 26 (2014)年には「兵庫ご当地グルメフェスティパル」の他、様々なイベントで好評を博すなど、加古川かつめしが全国に知られるようになりました。(取材/田村俊行)(no3838)

 *写真:全国各地で加古川かつめしのPRを行う「うまいでぇ!かつめしの会の」のメンバー。(『かこ・スタイル2』より)

 ◇きのう(1/9)の散歩(13.141歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(32) 誰もが認める加古川の味・かつめし

2018-01-09 08:27:26 | 加古川の味、かつめし

 「加古川の味、かつめし」は、no31でしばらくお休みをしていましたが、再開します。

 「うまいでぇ!加古川かつめしの会」が、結成され、「加古川のかつめし」もだんだん全国的に知られるようになりました。 

 「かこ・スタイル2」の記事から「かつめし」を紹介した記事を3回で紹介しましょう。

 きょうは、その(1)です。

    誰もが認める加古川の味・かつめし

 加古川の名物料理の代表といえは「加古川かつめし」です。

 平皿にご飯を盛リ、その上に牛力ツをのせて、たっぷりのデミグラスソース系のたれをかけ、ご飯の積にはポイルしたキャベツを添えて、なぜかお箸で食べる、このちょっと不思蟻で洒落たご当地グルメですが、その発祥は、戦後間もない頃、加古川駅前の洋食店で考案されたものだといわれていまず。

 誕生から50年以上が経過した現在、加古川市内で加古川かつめしを提供する店舗は150店を超えました。

 学校給食や学生食堂のメニューにもなり、市内のコンビニでは、コンビニ弁当や専用のタレも販売されるほど加古川市民にとってのソウルフードとして愛されているのです。

 戦後から加古川市民の間では秘かに親しまれてきた加古川かつめしですが、市外にも知られるようになったのは、平成9(1997)年に関西のロ-カルテレピ番組で紹介されたことがきっかけでず。

 その後平成11(1999)年に東播磨かつめし連盟が結成され、かつめし愛好家カツメシアンたちの活動が活発になりました。(文・田村俊行)(no3837)

 *写真:かつめし(インターネットより)

 ◇きのう(1/8)の散歩(10.644歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話として 永田耕衣(その3)・蛍の里

2018-01-08 08:33:24 |  ・コーヒーブレイク・余話

        夢のような世界

 耕衣は子供のころの今福の風景を『火の記憶』で、次のようにも語っています。

 これは耕衣、81才(1981・昭和56年)の文章です。

 「子供のころ」とは、明治の終わりごろの今福の風景と想像します。

 

 ・・・私の生家は、印南の只中に存在する50戸ばかりの寒村の、はしっぽにあった。

 門先からは、いつも鶴林寺の森と塔が眺められた。

 二千メートルも南へ行けば瀬戸内海の浜辺に出られるのだが、少年時代もその海に親しむこともなかった。

 山は遠くただダダっ広い田圃と畦道が遊び場であった。

 わずかに荷車の通ることのできる程度の農道が幹線道路で、その他は各農家の所有の田を、お互いに区切りあった畦ばかり。

 そのアゼに、春はレンゲやタンポポが無数に咲いた。

 ことに田植前までの田圃は、たいていレンゲを茂らせていた。

 まったくの「春の野」といえる豪華な夢の世界であった。

 村童たちも夢のように、村を離れて、ソコら中を自由に駆け巡った。

 そうした「野遊び」に「孤独感」はなかった。

 両親をも忘却しきって、さながら舞い遊んだ。

 遊び暮らした。

 一切の「世苦」等は、身に覚えぬ別天地であった。

      今福は激変中

 今福は、耕衣は、「50戸ばかりの寒村」と書かれているが、現在は800軒を超えました。

 私の書斎の前は、昨年までは田畑でしたが、すべて整地され50軒ほどの家が建つ予定です。すでに、20軒ばかりの家が建設されました。

 城山氏は、『部長の大晩年』の二節で今福を「ホタルの里」とされ描いておられます。

 昔といっても、そう遠くない昔です。ホタルがいっぱい飛んでいたんですね。

 時々、昔の今福の風景を想像しながら水路(用水)沿いを散歩します。お爺さんの散歩です。(no3836)

 *永田耕衣の人生については、詳しくは「永田耕衣の世界(ひろかずのブログのカテゴリー)」をご覧ください。

 *挿絵:ホタルの里

  ◇きのう(1/7)の散歩(12.535歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話として 永田耕衣(その2)・昔の今福村

2018-01-07 07:48:27 |  ・コーヒーブレイク・余話

 

        永田耕衣(その2)・昔の今福村

日本人の平均寿命は、男:79.00才、女:85.81才(平成18年)で、「老後を、いかに生き生きといきるか」という課題は、緊急なテーマとなっています。

 耕衣の老後は、まさにピカピカの人生でした。

 耕衣は、明治33年2月21日、今福で誕生。

 もちろん、耕衣は俳句の世界で、すばらしい業績を残されているのですが、彼の生き方はユニークで、現代の高齢者社会において老後の人生のモデルのようです。

 城山氏は、耕衣の生涯を小説を書くにあたり今福を取材されています。

      昔の今福(現:加古川市尾上町今福)

 ふるさと(今福)は、心の風景として、彼(耕衣)に大きな影響を与えています。

 城山三郎氏は、取材されたのでしょう。小説で小学生の頃(明治時代の終わり頃)の今福(村)を次のように描いています。

 

 「・・・(今福は)加古川の豊かな水を引き込んだ水路には、鮒、泥鰌(どじょう)、鯰(なまず)などが多く、林蔵(父)が鯰を好むので耕衣は特に鯰を狙った。

 岸辺の水草や藻をつついて追いかけたのを、タモですくったり、小さな蛙を縛りつけて針でつりあげたり。

 ・・・

 初夏には蛍が特に多いところで、無数の蛍が群れて、いくつもの光の玉、光の雲のようになり、輪を描きながら、夜空を低く舞う。・・・・」

 明治の終わりのころの今福を「蛍の里」として描いておられます。

 上記の「水路」・「ホタルが無数に飛んでいた水路」が、毎朝の散歩の出発地です。(no3835)

 ◇きのう(1/6)の散歩(12.128歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話として 永田耕衣(その1)・永田耕衣のことを考えながら 

2018-01-06 06:17:14 |  ・コーヒーブレイク・余話

       永田耕衣(その1)

 朝の散歩は、自宅の側の用水(フケの川)から始まります。

 俳人・永田耕衣(ながたこうい)は、子どものころ、この用水でフナ・ドジョウ・ナマズ等をよくとりました。

 用水沿いの道を歩きながら永田耕衣(ながたこうい)について考えていました。

     永田耕衣のことを考えながら

 (私は)俳人・耕衣については、以前から何度となく聞いていました。

 こう書くと、「いや、私は、永田耕衣については聞いたことがない」という反論が聞こえてきそうです。

 そのはずです。一部の俳句に興味がある方の間では、よく知られていたのでしょうが、一般的には広く知れた人ではありません。

 私は、俳句に特に興味はありません。

 つながりは、耕衣は、自宅のある加古川市尾上町今福の生まれていることだけです。

 個人的なことになりますが、家から50mのところが耕衣の生家です。

 そして、前のお宅は耕衣とご親戚になります。

 そんなこともあり、以前から耕衣についてしばしば聞くことがありました。

 しかし、耕衣について、関心を持ったのは生家が近くであるということではなく、彼をモデルにした小説『部長の大晩年』(新潮文庫)を読んで以来のことです。

 耕衣の老後の耕衣の生きざまに驚きもし感激しました。

 『部長の大晩年』は、次のように書き始めています。

     部長の大晩年

 永田耕衣、本名軍二は満五十五歳で定年の日(昭和30年・1955)を迎えた。

 勤続三十八年、退職時のポストは製造部長兼研究部長。勤務先は、三菱製紙高砂工場。

 戦前関西での三菱グループを代表する大工場であり、従業員千八百人。

 その工場長は、三菱系企業の関西での会合などでは、いつも幹事役をつとめる立場に在った。

 それほどの大工場で、耕衣は、工場長、工場次長に次ぐナンバースリーポストについていたのである。(以上『部長の大晩年(城山三郎)』より)

 それでは、今回を含めて、3回シリーズで耕衣のことをお話ししましょう。(no3834)

 *写真:晩年の永田耕衣『虚空に遊ぶ・(永田耕衣の世界)』(姫路文学館)

 ◇きのう(1/5)の散歩(10.994歩)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話として 花梨(カリン)の実

2018-01-05 05:25:14 |  ・コーヒーブレイク・余話

    花梨(カリン)の実

 朝の散歩道の途中に花梨の樹があります。秋には、いっぱい黄色い実をつけます。

 その花梨ですが、いま花梨の季節も終わり、実が地面に散らばっています。

 数個のカリンはまだ、枝で頑張っています。

 落ちたカリンの実もよほど固いのか、ほとんどの実は、もう落ちてひと月以上になるのですが萎れていません。

 しっかりと原型を保っています。

 落ちているのは、塀の中なので拾うことはできません。フェンスがなければ、子どもたちは蹴りながら家に帰るのでしょうね。

 この花梨について、花梨酒にするとしか知りません。

 インターネットで調べてみました。

 「・・・・秋になると黄色い果実をつける花梨(かりん)。

 完熟した花梨の果実は特有の芳香を有し、咳止めの効果もあることから健康によい果実として知られています。

 ただし生のままだとかたく、果肉がザラザラとしていて渋みもありおいしくありません。

 一般的には果実酒やハチミツ漬けなどに利用されています。・・・」とあります。

 とにかく、冬枯れの色の少ないこの時期に、黄色い花梨がフェンスのむこうですが、広がっている風景はうれしくなります。

 工場の受付の人に写真を撮らせてもらいました。

この花梨の樹に続きに「モチの樹」が17本も植えられています。(no3833)

 *写真:落ちたカリンの実

 ◇きのう(1/4)の散歩(11.375歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話として  秘密の道

2018-01-04 08:39:44 |  ・コーヒーブレイク・余話

 子どもの時、母の里(高砂市阿弥陀町)の裏山でよく小屋をつくって遊びました。

 ワクワク感がありました。

 だれも知らない自分(達)だけの秘密の基地でした。

    秘密の道

 最近、こんな感じを思い出しながら散歩を楽しんでいます。

 というのは、散歩の途中で、それに似た場所を見つけたんです。

 いまの場所に住んで40年以上になります。

 が、知らなかった場所でした。

 自宅から500㍍位南東に、住宅地があります。その北側に沿って200メートルほどの道があります。その道の北側は神戸製鋼所の下請けの工場です。

 道幅は1.5㍍ぐらいです。

 最近、荒れ地になるのを防ぐために、そして防犯のためにアスファルトの道になったようです。

 北側は、工場に沿って金網があり、その内側には樹が植わっています。

 南側は、住宅の裏側になっています。

 この道の入口には杭があり、車は入れません。

 200メートルほど行くと、補装は消えて草や木がビオトープ状態なっており入り込むには勇気がいりほどです。

 出口は、その手前で南へ行くと道に出ます。でも細い道で、しかも段差になっています。そのため、ここに入ってくる人はほとんどおられません。

 散歩には最適の場所です。落ち葉などのごみはありません。

 風のある日には風の道になり、落ち葉も吹き飛ばされるためか、いつも気持ちの良い道になっています。

 ほとんど知られていない道です。

 この道を朝の散歩の行き帰りに2度歩きます。

 74才のお爺さんの秘密の場所(基地)です。

 こんなことを考えながら歩くのは、きっと「二度童(わらし)」でしょうね・・・・(no3832

 *写真:秘密の道

 ◇きのう(1/3)の散歩(11.976歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話として  「あさめしまえ」の散歩

2018-01-03 08:16:22 |  ・コーヒーブレイク・余話

    「あさめしまえ」の散歩

 2日も穏やかな正月でした。

 最近は、「ひろかずのブログ」を入れてから、散歩に出かけるのが習慣になりました。

 今年も続けます。

 いわゆる朝食前(あさめしまえ)の散歩です。

 

 朝の散歩は、自宅周辺を歩くと約5000歩になります。

 自宅を出ます。少し南へ歩くと新幹線の高架になっています。

 そこから東へ1キロほど歩きます。晴れの日は、朝日に向かっての散歩です。

 きのうの朝も太陽がいっぱいでした。

 新幹線が、猛烈な勢いで通り過ぎてゆきます。

 ・・・・

 それはそうと、以前に新幹線に乗ったのはいつのことだったか思い出せません。ずいぶん前のことです。

 むしょうに新幹線に乗ってみたくなりました。

 どこでもいいんです。目的地はありません。とにかく新幹線に乗ってみたくなりました。

 外を見て、コーヒーを飲みながら外を眺めているだけでいいんです。

 その日は、どこか知らないところで宿泊して、ゆっくりと温泉につかり、ビールを飲んでゆっくり寝るだけです。

 翌朝、旅館の周りを散歩します。そして、もう一度風呂に入り、その日は帰ります。

 こんな、つまらないことを考えながらの朝飯前の散歩です。

 お爺さんでしょう・・・(no3831

 *写真:加古川市あたりを走り抜ける新幹線(インターネットより)

 ◇きのう(1/2)の散歩(11.468歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話 「社説」を読みます

2018-01-02 08:36:22 |  ・コーヒーブレイク・余話

 2018年が始まりました。

 時間は繋がっているのですが、なぜか新しい年のはじまりは特別のようです。

 郵便受けから新聞を取り出してから、朝の初散歩に出かけました。穏やかな元旦でした。

 子どもが公園で凧揚げをしています。風がなくて揚がらないようです。

 汗もかきました。

     「社説」を読みます

 「さて、今年は、どんな年になるのでしょうね」

 「他人まかせ」です。

 「今年は、どんなことにしましょうか」というべきですね。

 いま、74才です。だんだん気力が衰えてきていることを感じます。

 そのため、ブログを書くこと・散歩をすることにしていますが、その外に、今年はもう一つ目標をつくりました。

 それは、「社説(私の場合、購読紙の神戸新聞)を読む」ことです。

 考え方・行動の参考にします。

 退職以来、「新しいことをすることが、面倒くさい(保守的)」になっていることを感じています。

 ことしは、新しい歯止めのために、新聞(社説)を読もうと思います。

 押し付けはしたくないんですが、安倍首相の愛読紙「読売新聞」はいけません。読んでいると、よけいに不安になります。

 散歩の後、さっそく元旦の社説(神戸新聞)を読んでみました。現状の嘆き節だけではありませんでした。(no3830)

 ◇きのう(1/1)の散歩(11.387歩)

〈お知らせ〉

 今年も「ひろかずのブログ」は、「お爺さんの語る郷土の歴史」「加古川の味、かつめし」を中心に始めます。6日(土)からとなります。

 それまでは余話です。読み飛ばしてください。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする