ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(66) 飛鳥時代(3)・鶴林寺(3)、史料からみる鶴林寺

2018-01-18 07:40:22 | お爺さんが語る郷土の歴史

    文献史料からみる鶴林寺

 鶴林寺は国宝の本堂・太子堂をはじめとする文化財の宝庫であることはいうまでもありません。

 主要な建造物のほとんどすべてが国または県の文化財に指定されています。

 建築物以外でも、その種類が多種多様であることは驚きです。

 ところが、鶴林寺が伝えてきた文献史料は、中世(鎌倉・室町時代)に遡るものに限っていえばわずか37点しかありません。

 そして、鶴林寺文書には著しい特色があります。

 年代のもっとも古い文書は、鎌倉後期の文永五年(1268)の寄進状ですが、「縁起の伝える鶴林寺は聖徳太子建立」のことが出てきません。

 ふつうですと鶴林寺ほどの大寺院に伝わる文書では、皇室をはじめとする中央の貴族層か、将軍家か管領・守護クラスの上層武士層との結びつきが何かあるはずですが、鶴林寺文書にはそれを示す文書は全くありません。

 数の上で圧倒的に多いのは越生・梶原・菅野・舟橋・新野辺・長田など市の周辺部に本拠をもつ土豪武士たちによる寄進で、しかもその多くはそれほど広大な土地の寄進ではなく、せいぜい一段か二段という面積でした。

     鶴林寺・太子信仰により支えられた寺

 塩田浄観が寄進した、合計一町八反二十代と珍しく大きな寄進があるぐらいです。

 この塩田浄観は、印南郡の土豪と思われる人物です

 鶴林寺に残る文書や建築物などから鶴林寺が最も栄えたのは鎌倉・室町時代と思われます。

 国宝の本堂も室町建築です。

 「鶴林寺(2)」でも述べたように、鎌倉・室町時代は飢饉・天変地異、それにうち続く戦争の時代でした。

 この時代の人々は、観音の化身であるとする聖徳太子に救いを求めました。

 『加古のながれ』(加古川市史編さん室)もこの時期、一方で強訴・逃散、土一揆をおこすような人びとが大勢いたと同時に一方では塩田浄観のような富裕な豪族がいましたが、鶴林寺は、主に多くの庶民の「聖徳太子信仰」によって強力に支えられていた寺院であったのではないかと石田善人博士の意見を紹介しています。

 (蛇足)

 鶴林寺には白鳳期(大化の改新~奈良時代)の「あいたた観音」があるではないかという反論があると思いますが、仏像は建築物とは異なり移動させることができます。いつの時代にか、鶴林寺に運び込まれたものと考えられます。(no3846)

 *写真:国宝・本堂(室町時代)

 ◇きのうの散歩(11.179歩)

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