ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

余話として 永田耕衣(その1)・永田耕衣のことを考えながら 

2018-01-06 06:17:14 |  ・コーヒーブレイク・余話

       永田耕衣(その1)

 朝の散歩は、自宅の側の用水(フケの川)から始まります。

 俳人・永田耕衣(ながたこうい)は、子どものころ、この用水でフナ・ドジョウ・ナマズ等をよくとりました。

 用水沿いの道を歩きながら永田耕衣(ながたこうい)について考えていました。

     永田耕衣のことを考えながら

 (私は)俳人・耕衣については、以前から何度となく聞いていました。

 こう書くと、「いや、私は、永田耕衣については聞いたことがない」という反論が聞こえてきそうです。

 そのはずです。一部の俳句に興味がある方の間では、よく知られていたのでしょうが、一般的には広く知れた人ではありません。

 私は、俳句に特に興味はありません。

 つながりは、耕衣は、自宅のある加古川市尾上町今福の生まれていることだけです。

 個人的なことになりますが、家から50mのところが耕衣の生家です。

 そして、前のお宅は耕衣とご親戚になります。

 そんなこともあり、以前から耕衣についてしばしば聞くことがありました。

 しかし、耕衣について、関心を持ったのは生家が近くであるということではなく、彼をモデルにした小説『部長の大晩年』(新潮文庫)を読んで以来のことです。

 耕衣の老後の耕衣の生きざまに驚きもし感激しました。

 『部長の大晩年』は、次のように書き始めています。

     部長の大晩年

 永田耕衣、本名軍二は満五十五歳で定年の日(昭和30年・1955)を迎えた。

 勤続三十八年、退職時のポストは製造部長兼研究部長。勤務先は、三菱製紙高砂工場。

 戦前関西での三菱グループを代表する大工場であり、従業員千八百人。

 その工場長は、三菱系企業の関西での会合などでは、いつも幹事役をつとめる立場に在った。

 それほどの大工場で、耕衣は、工場長、工場次長に次ぐナンバースリーポストについていたのである。(以上『部長の大晩年(城山三郎)』より)

 それでは、今回を含めて、3回シリーズで耕衣のことをお話ししましょう。(no3834)

 *写真:晩年の永田耕衣『虚空に遊ぶ・(永田耕衣の世界)』(姫路文学館)

 ◇きのう(1/5)の散歩(10.994歩)

 

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