永田耕衣(その1)
朝の散歩は、自宅の側の用水(フケの川)から始まります。
俳人・永田耕衣(ながたこうい)は、子どものころ、この用水でフナ・ドジョウ・ナマズ等をよくとりました。
用水沿いの道を歩きながら永田耕衣(ながたこうい)について考えていました。
永田耕衣のことを考えながら
(私は)俳人・耕衣については、以前から何度となく聞いていました。
こう書くと、「いや、私は、永田耕衣については聞いたことがない」という反論が聞こえてきそうです。
そのはずです。一部の俳句に興味がある方の間では、よく知られていたのでしょうが、一般的には広く知れた人ではありません。
私は、俳句に特に興味はありません。
つながりは、耕衣は、自宅のある加古川市尾上町今福の生まれていることだけです。
個人的なことになりますが、家から50mのところが耕衣の生家です。
そして、前のお宅は耕衣とご親戚になります。
そんなこともあり、以前から耕衣についてしばしば聞くことがありました。
しかし、耕衣について、関心を持ったのは生家が近くであるということではなく、彼をモデルにした小説『部長の大晩年』(新潮文庫)を読んで以来のことです。
耕衣の老後の耕衣の生きざまに驚きもし感激しました。
『部長の大晩年』は、次のように書き始めています。
部長の大晩年
永田耕衣、本名軍二は満五十五歳で定年の日(昭和30年・1955)を迎えた。
勤続三十八年、退職時のポストは製造部長兼研究部長。勤務先は、三菱製紙高砂工場。
戦前関西での三菱グループを代表する大工場であり、従業員千八百人。
その工場長は、三菱系企業の関西での会合などでは、いつも幹事役をつとめる立場に在った。
それほどの大工場で、耕衣は、工場長、工場次長に次ぐナンバースリーポストについていたのである。(以上『部長の大晩年(城山三郎)』より)
それでは、今回を含めて、3回シリーズで耕衣のことをお話ししましょう。(no3834)
*写真:晩年の永田耕衣『虚空に遊ぶ・(永田耕衣の世界)』(姫路文学館)
◇きのう(1/5)の散歩(10.994歩)