ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

円照寺の花たち(88) 私説城山物語(3) 嘉吉の乱①、くじ引き将軍・足利義教

2016-05-18 07:49:55 | 円照寺の花たち

 「城山物語」と言いながら、今回も「城山」が登場しません。ご辛抱ください。

 赤松円心・嘉吉の乱・その後の赤松氏の概略を知って、そののちの城山物語をしましょう。

 今回と次回は、嘉吉の乱です。

 ≪嘉吉の乱①≫

   くじびき将軍・足利義教

 室町時代の四代将軍・義持(よしもち)は42才で亡くなると、その子の義量(よしかず)は、五代将軍になりました。

 ところが、彼は酒飲みであったためか若死にしてしました。

 その義量には子供がなく、後継問題が大問題となりました。

 結局、話し合いがつかず、将軍候補者(義持の弟たち4人)の中から「くじ引き」で将軍を決めることになりました。

 「くじ引き」で、次の将軍を引き当てたのが義教(よしのり)で、彼は「くじびき将軍」と陰口されました。

 このような時に、播磨・備前・美作(みまさか)の守護を兼ねる赤松家でも異変が起きました。

 赤松家三代総領の義則(よしのり)が1427年に亡くなりました。

 将軍・義教は、守護の力が大きくなることを嫌ってり、守護の内輪もめをつくり、干渉し、多くの有力な守護を没落させたのです。

    次は赤松!

 義教は、赤松の追い落としを狙いました。

 永享12年(1440)、満祐(みつすけ)の弟の領地(摂津・西宮)をことごとく召し上げ、細川氏に渡せとの命令を出しました。

 次は、いよいよ満祐本人が狙われることが確実な情勢となってきました。

 そこで、起きたのが世に有名な「嘉吉の乱(かきつのらん)」です。

 「嘉吉の乱」については、次号で事件を追ってみましょう。(no3223)

 *写真:五代将軍・足利義教像(妙興寺・部分)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする