「城山物語」と言いながら、今回も「城山」が登場しません。ご辛抱ください。
赤松円心・嘉吉の乱・その後の赤松氏の概略を知って、そののちの城山物語をしましょう。
今回と次回は、嘉吉の乱です。
≪嘉吉の乱①≫
くじびき将軍・足利義教
室町時代の四代将軍・義持(よしもち)は42才で亡くなると、その子の義量(よしかず)は、五代将軍になりました。
ところが、彼は酒飲みであったためか若死にしてしました。
その義量には子供がなく、後継問題が大問題となりました。
結局、話し合いがつかず、将軍候補者(義持の弟たち4人)の中から「くじ引き」で将軍を決めることになりました。
「くじ引き」で、次の将軍を引き当てたのが義教(よしのり)で、彼は「くじびき将軍」と陰口されました。
このような時に、播磨・備前・美作(みまさか)の守護を兼ねる赤松家でも異変が起きました。
赤松家三代総領の義則(よしのり)が1427年に亡くなりました。
将軍・義教は、守護の力が大きくなることを嫌ってり、守護の内輪もめをつくり、干渉し、多くの有力な守護を没落させたのです。
次は赤松!
義教は、赤松の追い落としを狙いました。
永享12年(1440)、満祐(みつすけ)の弟の領地(摂津・西宮)をことごとく召し上げ、細川氏に渡せとの命令を出しました。
次は、いよいよ満祐本人が狙われることが確実な情勢となってきました。
そこで、起きたのが世に有名な「嘉吉の乱(かきつのらん)」です。
「嘉吉の乱」については、次号で事件を追ってみましょう。(no3223)
*写真:五代将軍・足利義教像(妙興寺・部分)