≪嘉吉の乱②≫
赤松満祐、義教(六代将軍)を殺害
「・・・新邸の池のカモの子がたくさん生まれました。水面をすべる様子がいかにもかわいく、ぜひともお運びくださるように・・・」
嘉吉元年(1441)旧・六月、義教(足利六代将軍)のもとへ、こんな招待状が届きました。
新邸の主(あるじ)は、赤松満祐(みつすけ)でした。
義教は、就任以来続いていた戦いに勝ち抜き満ち足りた気持ちのときでした。
義教と仲が悪くなっている満祐からの招待でしたが、喜んでこの招待を受けました。
義教は、多数の重臣とともに赤松邸に入りました。
庭先の猿楽は三番まで進み、酒はすでに五杯目。宴たけなわのころでした。
この時、明かり障子がドット開き十数名の武士が義教めがけて突進してきました。
義教は、叫び声もあげる間もなく首をかき切られたのです。
満祐は、その日の夜のうちに、京都二条にある屋敷を焼き払い、家臣たち700名を伴い、播磨の坂本城(姫路市)に引き上げました。
満祐に味方するものは誰もいません。
赤松満祐は、急ぎ合戦の準備をしました。
幕府軍は、坂本城を攻め、これを陥落させました。
満祐は、揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの、赤松軍はすでに五百騎あまり、九月九日に攻撃が始まり城山城はついに陥落しました。
これは、円心から四代続いた赤松氏の滅亡でした。
この段階で、赤松氏再興を見通したものは誰もいなかったとおもわれます。(no3224)
*写真:加東市東条町安国寺にある足利義教の供養塔。(『兵庫探検(続歴史風土編)』(神戸新聞出版センター)より
満祐は、播磨・坂本城へ帰る途中、この寺で義教の葬儀を盛大に行ったといわれています。
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