ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

円照寺の花たち(87) 私説・城山物語(2) 赤松円心

2016-05-17 07:50:40 | 円照寺の花たち

 「城山」を知るために、赤松一族の歴史から始めましょう。

   「赤松円心」までの赤松の歴史は空白

 赤松一族について、一般的な説明書は、「・・・赤松氏は村上天皇につながり、その皇子・具平(ともひら)親王の王子師房(もろふさ)が源姓をもらって村上源氏の一翼を担い、さらにその曽孫師季(もろすえ)が政変に敗れて播磨国佐用庄へ流されてきた。この師季が赤松氏の初代となる。・・・」のように説明しています。

 これらの説明は、伝承といってよいようです。

 赤松円心の以前の歴史は、はっきりしません。

 まさに、赤松円心則村(以下「円心」とする)は、歴史に突如登場しました。

 赤松一族については、研究が進んでいるようです。

 でも、現在のところ、円心までの赤松氏の系譜は、嘘といわないまでも「空白」とするのが妥当のようです。よくわかっていないのです。

    円心は「悪党」!

 円心が突如、播磨に登場しました。

 そして、円心を語るとき、枕詞のように「悪党」として描かれることが多いようです。

 「悪党」は、「悪ガキ」という意味ではなく、「反体制として行動する人々」のという意味です。つまり、鎌倉幕府から見て、赤松は、まさに好ましくない「悪党」です。

 円心は、確かに、悪党を支配下にして活動することが多かったようです。

 「悪党」は、時には略奪等荒々しい行動をする反面、交通路・港湾を支配し年貢の輸送・売買に当たっていました。

 円心は、鎌倉幕府打倒を目指した後醍醐天皇方として活躍して、建武の新政では目覚ましい活躍をします。

 しかし、御醍醐天皇の「建武の新政」は、公家を重視する政治が行われ、恩賞に不満を持つ武士もいました。新政に対して不満が高まりました。

 新政で活躍した円心への処遇もまさに冷遇でした。

 「播磨守護」に任じられたものの3ヵ月で解任されます。

 その原因は、後醍醐天皇に対立した皇子・護良(もりよし)親王の失脚とも関係しています。

 円心は、護良親王に従って行動しています。

 やがて、足利尊氏が御醍醐天皇に反旗をひるがした時、円心は、当然のように足利尊氏と共に行動をしました。

 建武の新政は、2年余りで崩れ。尊氏は、室町で新政権を打ち立てました。

 円心は、室町時代の立役者として中央政界で、大活躍することになります。

 しかし、赤松氏の栄光は、長く続きません。突如終焉がやってきました。(no3222)

 *写真:赤松円心像(赤穂郡上郡町・宝林寺所蔵)

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