私残記
フォストフの紗那(シャナ)侵略により、南部藩の砲術師・大村治五平は捕虜になった。彼は、後に『私残記』という著作を残すことになる。
『私残記』は、公刊されたものではなく、子孫のために私かに残すという目的で書きのこされたエトロフ島防戦願末記である。
『私残記』の稿は、盛岡の大村家に伝えられていたが、昭和18年、盛岡在住の作家により現代語訳されて公刊された。いま、「中公文庫」(写真)に入れられて、容易に入手することができる。
紗那(シャナ)の戦場においては、大村治五平は、戦場をすてた。もちろん逃げたのは大村治五平だけではない。
彼の職務は戦闘を指導すべき砲術師であり、さらに、一時ロシアに捕虜になった。そのため、後に南部藩は戻ってきた治五平に対し藩は冷たかった。
かれは藩における吟味の席上、「たしかに逃げたことは相違ない」とみとめつつも、「しかし、その理由は、軽傷とはいえ敵弾を足にうけたためだ」という意味のことをのべている。
大村治五平は「全員が逃げた、責任のがれに私の指揮が悪く、私一人を悪者に仕立てあげたのである」と言いたかったのであろう。
紗那での完敗は、治五平だけの責任ではない。
ここでは、大村治五平のことを紹介したいのではない。
松右衛門澗(まつえもんま)
興味があるのは、この『私残記』は、彼が紗那に勤務していたということであり、紗那についての自然や風景が描かれている。
紗那を次のように書く。
・・・紗那の港は美しい湾とは決して言えない。海岸は砂ではなく。
大小の荒あらしい石でできていて、しかも遠浅である。
遠浅であるために、大きな船が奥深く入って錨(いかり)をおろすことができない。
ここに、「船が停泊できるように工事をしたのは、嘉兵衛が、松右衛門旦那とよんで、尊敬している工楽松右衛門である」と松右衛門を紹介している。
また、「・・船頭松右衛門という者が石船という舟をこしらえて、金毘羅(こんぴら)の前の海底の石を取り払って、船着き場をつくった。・・・・・また、この澗(ま:船が繋留できる場所)は、松右衛門澗(まつえもんま)と呼ばれた」とある。
金毘羅とあるのは海岸近くにたてられた金毘羅社のことで、嘉兵衛が建てたものであり、紗那にはその他の宗教施設がたくさんあったが、すべてフォストフ隊の侵略により焼かれた。
*『菜の花の沖(五)』参照