ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

工楽松右衛門物語(42):近藤重蔵①

2013-09-04 12:48:12 | 工楽松右衛門

やがて、近藤重蔵は、嘉兵衛、松右衛門に大きな影響を持つことになる。その前に、近藤重蔵について少し触れておきたい。

   近藤重蔵(こんどうじゅうぞう) 

988b954c(近藤)重蔵は、江戸町奉行所の与力の家にうまれた。

奉行所の与力というのは、幕臣からみれば、「与力か」と、さげすまれかねず、すくなくとも当の重蔵のほうが、それをたえず意識し、それがかれの努力のばねにもなっていた。

与力は、幕臣ではない。

当時の社会では、罪人は不浄とされ、与力・同心のように、罪人をとらえる職の者を不浄役人とし、正親の幕臣の列から外し、いわば臨時職として、その組織がつくられた。

また、「地役人(じやくにん)」という言い方でもって、正規の幕臣の外に置かれた。

ただ、その長官である町奉行職だけが、幕臣なのである。

     人材登用テストに合格

江戸後期の代表的政治家である松平定信は、老中首座をつとめること六年で退隠したが、その業績のめだったものとして人材登用がある。

幕臣(旗本・御家人)や地役人のなかから受験者をつのって、湯島の聖堂で学力試験をし、その成績によっては家格以上の役職への道をひらくというものであった。

むろん、この考試は、中国でおこなわれてきた高等文官登用のための科挙の試験というほどに大げさなものではない。

定信がやったそれは、封建身分制の維持に大きな支障をきたさぬよう、受験資格は幕臣かそれに準ずる者にかぎられていた。

すでに諸藩の士のあいだでは学問がさかんになっていたが、幕臣で学問をする者はめずらしかった。

定信自身、大名(奥州白河城主)でありながら、大の読書家として知られていた。

それだけに、幕臣の無学が腹立たしかったのであろう。 

    重蔵、蝦夷地へ

重蔵は、天明九年(1789)に、この試験に応募して経書、史書、策問(さくもん)、文章ともにばつぐんの成績であった。

学問吟味に合格したとはいえ、門閥主義の体制では、小吏に終わることは目に見えていた。

その時である。東蝦夷という新天地の経営が幕政の分野に加えられた。

重蔵は、志願して寛政十年(1798)蝦夷地巡察の幕府軍に加わった。

重蔵は、活動的であった。

クナシリ島およびエトロフ島へ渡海した。

寛政十年(1798)エトロフ島に「大日本恵登呂府」の言う標柱をたてた。

(以上『菜の花の沖』より抜粋)

絵:近藤重蔵肖像(東利尻郷土資料館蔵)

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工楽松右衛門物語(41):松前藩のアイヌ政策

2013-09-04 08:43:32 | 工楽松右衛門

   「アイヌは人にあらず」

Ezoアッケシで、三橋藤右衛門や嘉兵衛たちは、蝦夷地支配の現実をみた。

松前家にとって、蝦夷地の蝦夷は人間の機能をそろえた家畜であった。

働かせるばかりで、いっさいの庇護を与えず、さらにはかれらが進歩することを阻んでいた。

その事実を知られるのがいやだったのであろう。

しかし、嘉兵衛は、「アイヌはむしろ人として和人よりもよほど上等ではあるまいか」と思ったりもした。

この温和な民族が、塩、味晦、醤油すら用いず、真水で煮たきをしているのを見たとき、嘉兵衛は涙がこぼれた。

嘉兵衛は、元来涙の量の多い男であった.

つねに、その種の水分が多璽に精神のなかに貯えられて、自分自身をもてあますことがあった。

      松前藩のアイヌ政策

嘉兵衛たちは、蝦夷の長者を路上にひきずりだして打擲(ちょうちゃく)している姿も見た。

「江戸の者」と、嘉兵衛たちはよばれていた。

「江戸の者に何も話すなといっておいたのに、なにか喋っただろう」と、通詞がどなっているらしいことは、その状況や見幕で嘉兵衛にもわかった。

「けもののあつかいだ」と、嘉兵衛は怒りで身がふるえた。

人が人を殴っている姿ほどあさましいものはないが、通詞はむしろ嘉兵衛にも蝦夷地での作法を心得させるべくそれを見せつけているようでもあった。

が、蝦夷たちは嘉兵衛や三橋藤右衛門たちが接してくるのをよろこび、たずねられれば臆せずに話した。

田沼時代末期の蝦夷地調査以来、蝦夷たちは、「エド」という政権が、松前藩の上にあることを知ったし、その上、幕府関係者が例外なく蝦夷に対して優しかった。

このため、いかにあとで番人や通詞に痛めつけられようとも「エドの者」というひとびとに対しては心をひらいてしまっていたのである。

江戸人は、かれらにとって救世主のように見えたのではなかったか。

・・・(以上、『何の花の沖』より抜粋)

松前藩の蝦夷地支配は、暴力支配と苛烈は収奪のみであった。

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