フォストフのカラフト・千島列島襲撃事件は、その後、日本史を揺るがす出来事へと発展する。今回はゴローニン事件を紹介したい。
ゴローニン事件
フォストフの事件から5年後の文化8年(1811)、ふたたびロシア軍艦が、エトロフ・クナシリに出現した。
測量艦は、ディアナ号といった。艦長はゴローニンという海軍少佐で思慮、観察力それに勇気に富んだ人物であった。
ただ、かれの不幸は、幕府のほうが、フォストフ事件(エトロフ事件)の後で、この時期、極度の緊張でもって北辺の防備をするようになっていたことである。
ゴローニン少佐が海軍から命ぜられ、千島の測量をしていた。
7月4日(太陽暦)、測量船・ディアナ号は、クナシリ島の南端の湾に近づいた。
ゴローニンは、フォストフの一件を知っており、日本の側の反発も予想していた。
そのため、こんどの測量航海にあたり、できるだけ日本人に遭遇すまいと注意していたが、薪水が尽きたという事情があって、やむをえずこの島にやってきたのである。
湾の奥は、泊村(とまりむら)であった。
ゴローニン、クナシリ島で捕虜に
ゴローニンらは、薪水の供給をもとめて、泊村に上陸すると、すぐさま日本の警備兵にとらえられた。
さいわい、日本側も緊張していたとはいえ、ヒステリーの発作をおこす者はいなかった。
ゴローニンの船が近づいたとき、日本側は多少発砲したが、ゴロ一ニンと接触したとき、日本側の責任者の一人が、発砲をわび、「先年、ロシア船二隻が乱暴なことをしたために、同様の者がきたかと思い、発砲したのである。しかし、あなたがたの様子を見るのに、先年きた者とはまったくちがっている。われわれの敵意はまったく消えた」と言ったらしい。
そして、ゴローニンは、エトロフ島の長官と会い、りっぱな昼食のもてなしを受けた。
やがて、ゴローニンは艦に戻りたいといって海岸へ去ろうとしたが、長官はそれをゆるさなかった。
沖合のディアナ号には副長のリコルドが鑑を指揮していたが、彼は「ゴローニンは、日本に捕らえられた」と判断した。
この間、リコルドはゴローニンを救助するあらゆる努力をはらったが、ゴローニンを奪還できる条件になかった。いったんカムチャッカに引き返した。
ゴローニンは、松前へ護送され、入獄の身となった。
*『北海道の諸路・街道をゆく15(司馬遼太郎著)』朝日文芸文庫参照
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