松右衛門は、寛政二年(1790)から寛政七年(1795)にかけて、彼の持ち船の八幡丸で、数回にわたって、エトロフ島の紗那(しゃな)の有萌湾(ありもえわん)まで航海している。
したがって、松右衛門は当然、魔の海峡・クナシリ水道の航海技術をすでに心得ていた。
ある夜の話し合い
以下の話は、記録にはない。勝手な想像である。でも、きっとそんなことがあったことであろう。
この話を冬の夜で場所を兵庫の松右衛門の家と設定しておきます。
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松右衡門は、嘉兵衛と一献交えていた。
酒はお互いに嗜んだが、二人共飲みつぶれるような飲み方はしなかった。
話は、エトロフへの航路、つまりクナシリ水道の潮になった。
(松右衛門)
嘉兵衛よ。わしがクナシリ水道を初めて渡った時は、ここは地獄の入口かとおもえた。
潮は早いし、急に流れを変えるかと思ったら、次には霧が出てくる。
まさに、「地獄の入口」ようだった。
幸いなことに、その時は大きな船だったので乗り切ることができたが、アイヌの小さい船ではあの潮に飲み込まれたか、転覆したか、それとも、どこぞ知らぬ土地に流されてしまっていたに違いない。
(嘉兵衛)
クナシリ水道とは、そんな恐ろしい所でございますか。
(松右衛門)
恐ろしい。わしは、大きな船をつかったが、潮はすさましいばかりじゃった。
だが、決まった流れがあるのではないかと思う。それを見つけることが大切じゃ・・・
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それに、エトロフのアイヌは貧しい生活をしとる。クナシリ水道の潮は彼らの子船じゃ渡れない。
小さい船でも渡れる潮の流れを見つけることが大切じゃ。
そうしたら、エトロフの魚もクナシリ・蝦夷地へ運べるし、蝦夷地の物もエトロフに運ぶことができる。アイヌの生活は、ずっとましになる。
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松右衛門の話は、いつ果てるともつづいた。
嘉兵衛は、すべての話を、ただ驚きをもって聞いた。
この夜の話は、後の嘉兵衛門の「三筋の潮」の発見に繋がったのかもしれない。
松右衛門は、嘉兵門の師ではないが
松右衛門は、師弟関係でもなく、しかも同業者で、本来ライバルでもある16才年下の嘉兵衛を、あたかも自分の息子のように支援した。これほどの人物は稀有である。
歴史に名前をとどめたという点については、松右衛門の名は、嘉兵衛の長年にわたる北方における華々しい活躍のかげで薄れた。
*『(港づくりの天才)帆布の発明者 工楽松右衛門』参照