ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

平岡町二俣探訪:円明寺③・権兵衛と結界石

2009-07-04 23:56:48 |  ・加古川市平岡町

結界石

078 「不許葷酒入山門」と刻んだこの石塔(写真上)は、円明寺の「結界石」です。

「クンシュ、サンモンニ、イルヲ、ユルサズ」と読みます。

葷酒は、ニラ・ニンニク・ネギなどの臭気がある食物や、カラシ・トウガラシなどの刺激性のあるもの、精力の出ると言われている食物、それに肉などを指しています。

これらは、寺での行の妨げになるので、それらを食べて寺に入ってはいけない。

また、持ち込んではいけない、と言う意味です。

禅宗寺院の山門によくみられます。

 権兵衛は誰?

円明寺の山門前にある結界石の裏面に、「施主 高畑村 権兵衛」と銘(写真下)があります。

権兵衛は、立派な結界石を円明寺に寄贈するほどですから裕福な人物と思われます。

080 さいわい、『播州名所巡覧絵図』に高畑村の説明があり、権兵衛が登場しています。

高畑村・・・土山村の西なり。当村に名医あり、疾病を療す。

嗅薬を用ゆ、病者諸国より集まる。

高畑村に、名医がおり、遠くから多くの人々が治療のため、高畑村の医者のもとに集まったと言います。

権兵衛は当時の観光案内書『播磨名所巡覧絵図』で紹介されるほどでした。よほどの名医だったようです。

権兵衛(ごんべえ)の名は、「高畑の明細帳(寛延三年・1750)」にも記録されています。

近隣の人は、親しみをこめてゴンベハンと呼んでいました。

ゴンベハンのご子孫は、現在でも高畑で医者を開業しておられます。

高畑の国道2号線沿いの大西医院です。

権兵衛と円明寺の間にどんな関係があったかは分からない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平岡町二俣探訪:円明寺②・層塔は知っている。米騒動のことを!

2009-07-04 12:21:01 |  ・加古川市平岡町

  米 騒 動

1918年(大正7)の神戸市内の米の値段(一升)を見てみましょう。

7月  2日  34銭5厘

    16日  36銭8厘

    24日  37銭9厘059

8月  1日  40銭7

     4日  43銭5厘

     7日  55銭3厘

     8日  60銭8厘

 米価は、まさに「うなぎのぼり」というありさまでした。

 これは、都市の労働人口が増えたこと、大戦(第一次世界大戦)で食料難のヨーロッパへ米を輸出したこと、シベリア出兵に供えて米価の高騰を見こした地主の米の買占め、加えて地主の政党といわれた政友会が、地主を守るために外米の輸入関税を撤廃しなかったこと、などが影響しての米価は急騰でした。

  鈴木商店襲われる

またたくまに、米の安売りを求める運動が全国に広がりました。これが米騒動です。  

米騒動は、京都・大阪・神戸へと波及しました。

神戸では、818日、千余人の群集が米屋を襲って米騒動の口火が切られました。

市内の川崎町一丁目には、米を買い占めているとウワサされた鈴木商店がありました。

鈴木商店と言うと、名前から「たかだか大きな店屋かな」と思ってしまいますが、当時三井・三菱と肩を並べた政商でした。

神戸製鋼所も鈴木商店の一部門でした。

鈴木商店本店の四階建ての建物は12日夕方から一団が店内に突入し、火をつけました。

民衆は駆けつけた消防隊のホースを片っぱしから切断し、ポンプをひっくりかえしたため、さしもの鈴木商店の建物も午後11時に焼け落ちてしまいました。

  層塔・円明寺へ

前おきが長くなりましたが、以下『JA加古川南ふれあい情報誌(2005・3)』の記事をお借りします。

・・・現在円明寺には十三重の多層塔(写真)があります。

その多層塔は、神戸の鈴木商店に建立されていたもので、大正末期の米騒動で鈴木商店が焼き討ちに遭った後、持ち出されドイツ人のヘルム氏が所有していた「スタンダード」と呼ばれる農園に建てられていました。

その後、農園が楠ヶ丘という住宅地に改造された際、円明寺が譲り受け、現在の場所に移されました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする