田はもとより畑、屋敷も全て米の生産量に換算されました。
そして、この村高に対して年貢がかけられ、それが藩・幕府の財政の基礎になりました。
ですから、村高に関しては特に厳密でした。
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『加古川市史(第五巻)』に、『正保郷帳』・『元禄郷帳』・『天保郷帳』が紹介されています。
それに『旧高旧領取調帳』の資料を加え、江戸時代の二俣村の村高について、みていきましょう。
二俣村の村高
正保郷帳・正保三年(1646)より 二股村 旱損所
村高 432.226石(内、田382.7/畑49.526)
元禄郷帳・元禄一五年(1702)より
村高 432.232石
天保郷帳・天保五年(1834)より
村高 551.022石
旧高旧領取調帳(播磨国-明治2年・1868)より
村高 551.022石
江戸時代も、最初の頃は戦国時代に発達した技術が農業開発に転用され一大開発時代でした。
明治時代までの村の原風景は、この時代につくられました。
二俣の村高を見てみましょう。
正保郷帳と元禄郷帳、つまり江戸時代初期から元禄時代までは、二俣村の村高約432石で、ほとんど変わっていません。
江戸時代の終わりから明治が始まった明治2年の二俣村の石高は、551石となっています。
元禄15年(1702)と天保5年(1834)の134年間に、生産は約119石の増加がありました。
この原因は、時代から見て、新田の開発とは考えられません。
品種の改良、肥料の改良、栽培方法の改善などが考えられるのですが、それにしては増加幅が大きすぎます。
何か別の理由があったに違いない。
資料が無いためはっきりしません。