ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

米田町探訪:山片蟠桃(やまがたばんとう)②

2007-08-30 08:14:19 |  ・加古川市米田町

_014     ・雷に打たれて死んだ人は、決して悪人ではない。たまたまそうなっただけで、これは自然現象である。

  ・人間の精神作用は、死と共に活動を停止する。霊魂の不滅などということは絶対にない。

  蟠桃は、このように「日常生活における迷信を否定し、物事を合理的に考えなければならない」と説いた。

  このことは、次の意見にもよくあらわれている。

  ・西洋人が、世界の海を自由にかけめぐっているのは、天文学と地理学の豊かな知識に基づくものである。勇気は知識から生まれる。

  蟠桃は「懐徳堂」から多くを学んだ。

  懐徳堂の規則に、次のような項目があった。

  「学問は、貴賎貧富を認めず、市民平等たるべし」

  まさに、現代の思想である。

  やがて、江戸幕府はその幕を閉じるが、その瞬間から日本はアメリカ・ヨーロッパの知識・文化を取り入れた。

  蟠桃の学問は、新しい学問の受け皿の役目を果した。

  文化7年(1810)、妻・のぶを亡くし、蟠桃にも老いの悲しみが押し寄せてきた。

  文化10年、ついに失明した。

  開かぬ目で、故郷・米田村神爪(かづめ)に錦を飾った。

  その2年後、文政4年(1821)2月26日、静かに息をひきとった。74才だった。

*写真:蟠桃寄贈の灯籠(神爪)

コメント
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