信長軍は、神吉軍の15倍の兵である。
あまりにも違いすぎる。
以前、ブログで「この時の大将は信長の長男の信忠であり、“信長の親ばか”とも思える・・・」と無責任な感想を述べたことがある。
この時、信長は次のように判断したのだろう。
1、神吉城は、三木方の有力な城であり、ここを一挙に潰せば、他の三木方の諸城に与える影響は大きい。
2、三木攻めは、もちろん最終戦ではない。将来の毛利との戦いに備えて、消耗戦はしたくなかった。そのため、一挙に攻め、兵士の温存をはかった。
3、神吉攻めだけであれば、これほど大規模な軍の必要はない。
しかし、当然三木方に味方する諸城からの援軍があるであろう。
つまり、三木方の援軍に備える必要がある。
信忠軍は、総攻撃に先立って、織田方の軍勢の一部を志方城を監視する軍に当てている。
この軍は信忠の弟・信雄(のぶかつ・信長の次男)が指揮をとり、志方と神吉の中間の富木あたりに陣をひいた。
何よりも、神吉城の守りは、城主・神吉頼定を中心に堅いと言う噂であった。
これらの判断の結果が、30000と言う数字であろう。“信長の親ばか”から出た数字ではない。
信長は、そんな「やわな人物」ではない。
*写真は、神吉城比定地の常楽寺(加古川市東神吉町神吉)