ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

東神吉町探訪;神吉城の攻防⑤・信長の思惑

2007-08-05 06:21:59 |  ・加古川市東神吉町

_622     神吉軍は約2000。それに対し、信長軍は約30000の兵。

  信長軍は、神吉軍の15倍の兵である。

  あまりにも違いすぎる。

  以前、ブログで「この時の大将は信長の長男の信忠であり、“信長の親ばか”とも思える・・・」と無責任な感想を述べたことがある。

  この時、信長は次のように判断したのだろう。

1、神吉城は、三木方の有力な城であり、ここを一挙に潰せば、他の三木方の諸城に与える影響は大きい。

2、三木攻めは、もちろん最終戦ではない。将来の毛利との戦いに備えて、消耗戦はしたくなかった。そのため、一挙に攻め、兵士の温存をはかった。

3、神吉攻めだけであれば、これほど大規模な軍の必要はない。

  しかし、当然三木方に味方する諸城からの援軍があるであろう。

  つまり、三木方の援軍に備える必要がある。

  信忠軍は、総攻撃に先立って、織田方の軍勢の一部を志方城を監視する軍に当てている。

  この軍は信忠の弟・信雄(のぶかつ・信長の次男)が指揮をとり、志方と神吉の中間の富木あたりに陣をひいた。

  何よりも、神吉城の守りは、城主・神吉頼定を中心に堅いと言う噂であった。

  これらの判断の結果が、30000と言う数字であろう。“信長の親ばか”から出た数字ではない。

  信長は、そんな「やわな人物」ではない。

*写真は、神吉城比定地の常楽寺(加古川市東神吉町神吉)

コメント
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