昭和25年、米田町・西神吉町・東神吉町は、旧加古川町を中心とする合併に参加を申し入れ、これら3町との間で仮調印までおこなっていた。
しかし、米田町は、加古川市への参加に反対するグループが町長のリコール運動をおこす内紛もあり、結局3町の合併は実現しなかった。
その後、米田町では、高砂町との合併を望む声が高まり、加古川市との間で板ばさみの苦しい立場に立たされることになった。
この時、加古川市の態度は「加古川市と高砂地区が大同合併して、一大産業都市を建設したい」という理想を掲げた。
米田町内の事態は、ますます悪化した。
合併のこじれから端を発した町政の紛糾は、町長の不信任案の提出からリコール寸前へ、さらに町会の正副議長の辞職を申し入れるまでにいたった。
加古川市でも、もっと積極的に米田町に働きかけるべきとの意見が高まった。
昭和29年1月16日の米田町会は、議員16名中7名の欠席の中で高砂への合併に同調することを決定した。
ここに激震が走った。
米田町船頭地区は、「分町してでも加古川市に合併する」とする爆弾宣言が飛び出し、陳情書を県当局ならびに議会筋に申し入れた。
米田町の合併問題は、県を巻き込んだ合併劇となっていった。
*『加古川市議会史(記述遍)』参照。写真は、米田町役場(『加古川市議会史・記述遍』より)