記入ミスではないかと思えるほどの数字である。
神吉村(寛保2)
212戸
人口 1148人
男 703人
女 445人
この数字は異常で、男女の割合があまりにも違いすぎる。
女子に対し何らかの人口調整が行われたとしか考えられない。
この時代は、災害が重なり、百姓騒動が起こり、飢饉が続いた時代であった。
この時期の加古川地域のようすを知りたいが、適当な史料が見つからなかった。(ご存知の方はお知らせ願いたい)
兵庫県の他の地域のようすから神吉村を考えてみたい。
摂津の生津村(なまづむら・尼崎市)は、享保17年(1732)蝗害(こうがい・イナゴの害)に襲われ、元文5年(1740)には武庫川の大洪水等を契機として農村の窮乏が激化した。
享保17年、(近辺の)20カ村から2274人の飢人を出し、さらに翌18年には16カ村で258軒、790人の飢人があらわれている。
記述はさらに続くが、この時期の農村は極度に疲弊した。
*『兵庫県史(第四巻)』・『神吉村の記録-うもれた村誌を掘りおこす-』(神吉町内会)参照