ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

東神吉町探訪:神吉村窮乏 ①

2007-08-09 07:21:14 |  ・加古川市東神吉町

9d463fd4     寛保二年(1742)の神吉村の人口の記録(明細帳)がある。

  記入ミスではないかと思えるほどの数字である。

  神吉村(寛保2)

        212戸

   人口 1148人

    男 703人

    女 445人

  この数字は異常で、男女の割合があまりにも違いすぎる。

  女子に対し何らかの人口調整が行われたとしか考えられない。

  この時代は、災害が重なり、百姓騒動が起こり、飢饉が続いた時代であった。

  この時期の加古川地域のようすを知りたいが、適当な史料が見つからなかった。(ご存知の方はお知らせ願いたい)

  兵庫県の他の地域のようすから神吉村を考えてみたい。

  摂津の生津村(なまづむら・尼崎市)は、享保17年(1732)蝗害(こうがい・イナゴの害)に襲われ、元文5年(1740)には武庫川の大洪水等を契機として農村の窮乏が激化した。

  享保17年、(近辺の)20カ村から2274人の飢人を出し、さらに翌18年には16カ村で258軒、790人の飢人があらわれている。

  記述はさらに続くが、この時期の農村は極度に疲弊した。

*『兵庫県史(第四巻)』・『神吉村の記録-うもれた村誌を掘りおこす-』(神吉町内会)参照

  

コメント (1)
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