西国三十三観音巡りは、平安時代の中ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねをするようになりました。
人々は、病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えるとお礼のために、または亡き人の供養のために、さらに自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりに出かけました。
第一番の那智山青岸渡寺から最後の三十三番目の谷汲山華厳寺までの寺めぐりでした。
それは苦行の旅でした。
江戸時代になり治安もよくなりました。
交通機関も整備され、西国三十三観音めぐりも比較的やりやすくなり、苦行であった巡礼も、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。
しかし、誰にでも気軽に巡礼の旅に出ることはできません。
苦しい生活の庶民にとって、三十三観音巡りは現在の外国旅行よりも、ずっと縁の遠いものでした。
そこで考えられたのが播磨の国の中に三十三か寺を定め、それらの寺を巡礼すれば同じ功徳があるとしてはじまったのが「播磨西国三十三所めぐり」です
このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めのころです。
郡西国三十三札所・円明寺(十五番札所)
もっと、誰にでもできる巡業として、加古郡内に三十三観音めぐりの巡礼がはじまりました。
これが「郡西国三十三札所(郡西国ともいう)」です。
この郡西国の十五番札所が、わが二俣の円明寺でした。
ちなみに現在の平岡町にある郡西国の札所は、16番・横蔵寺(新在家)、17番・善良庵(西谷:現在、廃寺)、19番・長松寺(高畑)、28番・昌福寺(中野)、29番・安養寺(一色)の各寺々です。
写真は、円明寺の観音堂の三十三の観音像。
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