江戸時代以前の蛸草の旧六か村(今の北山・中村・森安・六分一・国安・岡)は天満大池を生活の基盤とする村々(池郷)でした。
ですから、天満大池は、もと「蛸草大池」と呼ばれていました。右の絵図(江戸時代前期寛文6年=1666年)をご覧ください。
池は、現在の天満大池ですが「蛸草大池 」と書かれています。
話は、すこし横道にそれます。
蛸 草 大 池
天満神社の祭神の話をしましょう。
天満神社は神社の縁起はともかく、大変古い歴史を持つ神社です。
この地域(蛸草郷)を開拓した人々にとって、池(水)はまさに神であり、大池を池大神として祀りました。
後に、菅原道真が「この地に立ち寄られたという縁起」で、道真が祀られるようになりました。
そして、「永禄8年(1565)、本社を再建した時に、主神を池大神から天満天神(管原道真)とした」というのです。
天満神社は、もともとは池大神をお祀りする神社として出発しています。
天満(蛸草)大池そのものが神社の御神体だったのです。
まさに、天満大池は稲をそだて、豊かな生活(稔)約束する神でした。
もちろん天満神社は、蛸草旧六か村の氏神です。
蛸草新村の開発がはじまる
ここから、現在の蛸草(村)の話になります。
江戸時代の初めのころ、天満大池の水が集まるところに新田(蛸草新村)の開発が始まりました。
当然、天満(蛸草)大池に集まる水は少なくなります。
旧蛸草村は大変です・・・
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