蛸草新村は、蛸草大池の上流の村
蛸草新村は元禄10年(1697)、中村大庄屋・小山五郎右衛門、上西条(現:加古川市八幡町)の大庄屋・沼田与次太夫の両人よるもので、村名は、はじめはその面積から「六十丁」と呼ばれました。
蛸草新村は、天満大池(以下、当時の呼び方である蛸草大池という)が水を集める溝(流・りゅう)の上流にあたります。
そこに蛸草新田がつくられると、それらの田畑を潤すための溜池がつくられることになります。
当然のこととして蛸草大池に集まる水は少なくなります。
旧蛸草村(北山・中村・森安・六分一・国安・岡とその周辺)の百姓は、黙っていることはできません。
当時でも、水利慣行の変更は余ほどのことがなければ不可能でした。
旧蛸草村の人々は蛸草大池の上流に新池を作ることに反対します。
可能な方法は、一つだけあります。
藩の命令です。
藩からの命令があれば百姓はしぶしぶでも従わねばなりません。
大庄屋・小山五郎右衛門
しかし、蛸草新田の開発では、藩の命令があったという形跡はありません。
地元で解決しなければなりません。
さいわい、当時、開発の中心になったのは、上西条の大庄屋・沼田与次太夫と中村の大庄屋・小山五郎右衛門でした。
とりわけ、大庄屋・五郎右衛門は元禄年間から宝永年間にかけて、その辣腕を発揮した大庄屋でした。
五郎右衛門は、旧蛸草村の中心であった中村の人です。
彼は、旧蛸草の村々の百姓を説得できる立場にあった唯一の人物です。
時には、強引に事を運び、横暴ぶりも発揮するのですが、五郎右衛門こそ蛸草新村の歴史をつくった第一人者です。
新田は、「蛸草荘」の最後の開発地という意味で蛸草新田と改名されました。
新田村を「蛸草新村」と名づけたのも五郎右衛門だったのかもしれません。
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