ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(462):蛸草を歩く(5)・小山五郎右衛門①

2011-04-12 07:48:44 |  ・稲美町蛸草

   

蛸草新村は、蛸草大池の上流の村

8741f1e6蛸草新村は元禄10年(1697)、中村大庄屋・小山五郎右衛門、上西条(現:加古川市八幡町)の大庄屋・沼田与次太夫の両人よるもので、村名は、はじめはその面積から「六十丁」と呼ばれました。

蛸草新村は、天満大池(以下、当時の呼び方である蛸草大池という)が水を集める溝(流・りゅう)の上流にあたります。

そこに蛸草新田がつくられると、それらの田畑を潤すための溜池がつくられることになります。

当然のこととして蛸草大池に集まる水は少なくなります。

旧蛸草村(北山・中村・森安・六分一・国安・岡とその周辺)の百姓は、黙っていることはできません。

当時でも、水利慣行の変更は余ほどのことがなければ不可能でした。

旧蛸草村の人々は蛸草大池の上流に新池を作ることに反対します。

可能な方法は、一つだけあります。

藩の命令です。

藩からの命令があれば百姓はしぶしぶでも従わねばなりません。

   

大庄屋・小山五郎右衛門

しかし、蛸草新田の開発では、藩の命令があったという形跡はありません。

地元で解決しなければなりません。

さいわい、当時、開発の中心になったのは、上西条の大庄屋・沼田与次太夫と中村の大庄屋・小山五郎右衛門でした。

とりわけ、大庄屋・五郎右衛門は元禄年間から宝永年間にかけて、その辣腕を発揮した大庄屋でした。

五郎右衛門は、旧蛸草村の中心であった中村の人です。

彼は、旧蛸草の村々の百姓を説得できる立場にあった唯一の人物です。

時には、強引に事を運び、横暴ぶりも発揮するのですが、五郎右衛門こそ蛸草新村の歴史をつくった第一人者です。

新田は、「蛸草荘」の最後の開発地という意味で蛸草新田と改名されました。

新田村を「蛸草新村」と名づけたのも五郎右衛門だったのかもしれません。

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