蛸草②・いまの蛸草は、江戸時代の新田村
蛸草①(前回)で、蛸草庄を紹介しました。
昨日紹介した図(地図)をご覧ください。
図は、江戸時代以前の蛸草庄の範囲示しています。
この蛸草庄と現在の稲美町天満蛸草との関係が分かりにくいと思いますので、説明しておきます。
現在の蛸草も地域としては蛸草庄に属していましたが、地域の名称としての蛸草は、室町時代で一度消えました。
蛸草庄と現在の蛸草は直接の繋がりはありません。
現在の蛸草は、江戸時代に開発された新田村に新たにつけられた村名です。
「蛸草」の名称復活
蛸草は、中村の大庄屋・小山五郎衛門が、元禄10年(1697)に開発を始めました。
同年5月、藩に開発許可願いを提出し、許可を得て数年後には畑38町を開きました。
この開発には上西条(現:加古川市八幡町)の大庄屋・沼田与次太夫の協力がありました。
そのため、西条方面より当地に移住する者も多くいました。
与治太夫の一族の沼田与平治の子・久右エ門は、元禄10年(1702)この地に移住し、庄屋を仰せつけられています。
たぶん開拓者・小山五郎衛門か、協力者の沼田与次太夫等でしょうが、伝統のある「蛸草」の名を自らの村名として復活させています。
開発当時は畑のみでしたが、元禄15年(1702)には、村のもっとも上手にため池造りをはじめ、翌16年春、広沢池・広谷新池を築き、水田2町歩を開きました。
これが、蛸草村の稲作の始まりです。
村の古文書に「元禄16年(1703)水田2町歩を開き、稲をつくり9月15日に作米三俵を年貢米として高砂の蔵に納めた・・・」ことがみえます。
『宝暦14年(1764)明細帳』によれば、蛸草の家数107軒・人数610人・田方6町5反1畝5歩・畑方42町3畝21歩であり、この頃48町余の耕地を作り上げています。
しかし、一軒当たりの耕地面積は4反5畝に過ぎず、零細な村でした。
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