現在の蛸草は、江戸時代の新田村
図は、江戸時代以前の蛸草庄の範囲を示しています。
この蛸草庄と現在の稲美町天満蛸草との関係が分かりにくいと思います。
簡単に説明しておきます。
現在の蛸草も地域として、もとは蛸草庄に属していましたが、江戸時代となり各村々は、一つの単位として政治(生活)がおこなわれるようになりました。
そのため、地域の名称としての蛸草は、室町時代で一度消えました。
蛸草庄と現在の蛸草は直接の繋がりはありません。
現在の蛸草は、江戸時代に開発された新田村に新たにつけられた村名です。
「蛸草」の名称復活
現在の蛸草は、中村・小山五郎衛門(元禄13年に大庄屋となる)が、元禄10年(1697)に開発を始めました。
同年5月、藩に開発許可願いを提出し、許可を得て数年後には畑38町を開いています。
この開発には上西条(現:加古川市八幡町)の大庄屋・沼田与治太夫の協力がありました。
そのため、西条方面より当地に移住する者も多くいました。
与治太夫の一族の沼田与平治の子・久右エ門は、元禄10年(1702)にこの地に移住し、庄屋を仰せつけられています。
たぶん開拓者・小山五郎衛門か、協力者の沼田与治太夫でしょうが、伝統のある「蛸草」の名を自らの村名として復活させたとおもわれます。
それにしても、「蛸草」とは不思議な呼称ですね。
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