蛸草の開発者、小山五郎右衛門について調べておきましょう。
『稲美町史』から引用しますが、たぶんに伝承的な説明です。
*この記事は、「稲美町探訪(248)・中村を歩く②」と重なります。
最初の部分は省きます。
「・・・小山氏一の祖先は、鎌倉時代下野(しもつけ・栃木県)の国から一時播磨の守護になって来た。
その子孫、小山源兵衛が三木別所氏に仕えていた。
天正八年(1580)一月、城主別所長治が自刃するとき長治(ながはる)の意を受けて別所氏の守り本尊十一面観音を奉じ、長治の末子をともなって蛸草庄(現:稲美町中村)に難をのがれ、庵を結んで十一面観音を祀り、京林山西教寺と号した。
この源兵衛の後を、源兵衛が伴い帰った長治の末子があとを継いで、(小山)与兵衛と名のった。
その五代目が五郎右衛門であった。・・・」
話としては、少しできすぎのようです。
三木城落城のさなか、別所長治の末子を連れ、三木城を脱出できたとは想像できません。
小山氏は元、蛸草城の城主か?
事実は、中村組の大庄屋・小山氏は赤松の血筋を引く小山田兼定(おやまだかねさだ)が祖先の一人で、源兵衛は三木城にこもり、三木城が落城した時、長治の本尊を持って中村に来て後に一寺(西教寺)を建てた」ということではないかと想像されます。
小山氏が藩主から「大庄屋」に任ぜられたのは、戦国時代に中村にあった「蛸草城」の城主・小山田氏だったためと考えられます。
小山氏は、もともとこの地域の領主的存在であったようです。
初期の大庄屋は地域の有力な一族から選ばれることがふつうでした。
なお、西京寺は蛸草城跡に建立されたと考えられていますが、その後西京寺は無住となり、明治初年の神仏分離にあたり国安にあった円光寺は天満神社の地から中村の西教寺跡に移り現在にいたっています。
想像の多い報告です。
*写真:源兵衛の子孫で、円光寺20世となった大阿闍梨(あじゃり)の石塔(円光寺墓地)
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