稲美町母里の蛸草の散策に出かけます。テーマは「蛸草を歩く」としておきます。
今日はその第1回です。きょうの報告の「蛸草」は、現在の蛸草ではありません。
でも、「蛸草を歩く」は、「元の蛸草」と、「今の蛸草」を比べるところから歴史散策に出かけます。
内容は、「稲美町探訪(78)」と重なります。
蛸草・五箇荘のうち蛸草庄について
五箇荘(ごかのしょう)
平清盛は、播磨国印南野に大巧田(だいこうでん)を賜りました。
仁安2年(1167)のことです。
功田(こうでん)というのは、律令制度の下で、国家に対して貢献した人に与えられる田地のことです。
中でも大功田は、代々子孫に伝えることができる特別の田地でした。
しかも、無税地です。
平家が賜ったこの私有地(荘園)は、五箇荘(ごかのしょう)と呼ばれています。
五箇荘について『加古郡史』は、「野寺・北山・中・森安・六分一・国安・岡の七村をいう」とあります。
しかし、近年の研究では五箇荘は、現在の稲美町はもちろんのこと、加古川市域・高砂市域をはじめ、明石市の林崎あたりまでも含む大きな荘園であったようです。
稲美町域は、平氏の支配する五箇荘に属していました。
しかし、平家滅亡後は、平氏の持っていた所領は全て没収されてしまいました。
そういう没収された平家の所領を平家没官領(もっかんりょう)と呼んでいます。
この平家没官領に新しく関東から源氏系の武士が大量の流入があり、播磨の中世(鎌倉時代)は、はじまりました。
五箇荘のうち蛸草庄
時代はずっと下がるのですが、江戸時代中期、元文二年(1737)の国安の明細帳に「加古郡五ヶ庄蛸草谷国安村」とあります。
「五ヶ庄蛸草(谷)」に注目ください。
蛸草庄は、五箇荘の一部で国安をはじめ、森安・中・北山・六分一・岡とその周辺を含む地域を指しています。
かつて、草谷庄の地域は、蛸草郷とも蛸草谷とも呼ばれていました。
*図は、『稲美町の歴史』(伊賀なほゑ著)参照
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