『吾輩は猫である』などの小説で知られる夏目漱石は俳人でもあり、2500首以上の俳句を残しています。その中に次の一句があります。
落ちざまに虻を伏せたる椿かな
アブがツバキの蜜を吸っている最中に花が落ちたので、その中に閉じ込められたという句です。
ところが、漱石の門下生の一人、物理学者であり俳人、随筆家でもある寺田寅彦が、この俳句に疑問を持ちます。「たとえそれが落ち始める時にはうつ向きに落ち始めても、空中で回転して仰向きになろうとするような傾向があるらしい」。
ツバキの花は元の方が重いので、うつ向きには落ちないのではないかという疑問です。物理学者らしい発想ですね。
ツバキで有名な近くのお寺の庭。仰向きに落花しています
尊敬する先生の俳句と科学的真実の矛盾に悩んだでしょうね。寅彦は観察と実験を試みます。そして、「木が高いほどうつ向きに落ちた花よりも仰向きに落ちた花の数の比率が大きいという結果になるのである。しかし、低い木だとうつ向きに枝を離れた花は空中で回転する間がないのでそのままにうつ向きに落ちつくのが通例である」という結果を得ます。
低い枝から落ちれば回転する暇がないので、鉢を伏せた状態で落ちるというわけです。
お寺の庭にもうつ向きの落花がいくつかありました
そして、「この空中反転作用は花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率等によって決定されることはもちろんである。それでもし虻が花の芯の上にしがみついてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動しその結果はいくらかでも上記の反転作用を減ずるようになるであろうと想像される。すなわち虻を伏せやすくなるのである」と続けています。
さらに、「自分はこういう瑣末な物理学的の考察をすることによってこの句の表現する自然現象の現実性が強められ、その印象が濃厚になり、従ってその詩の美しさが高まるような気がするのである」と結んでいます。
寺田寅彦は物理学者として大きな業績を残しながら、文学や西洋音楽にも造詣が深く、漱石の小説の中にもモデルとして登場するそうです。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉といわれています。
落ちざまに虻を伏せたる椿かな
アブがツバキの蜜を吸っている最中に花が落ちたので、その中に閉じ込められたという句です。
ところが、漱石の門下生の一人、物理学者であり俳人、随筆家でもある寺田寅彦が、この俳句に疑問を持ちます。「たとえそれが落ち始める時にはうつ向きに落ち始めても、空中で回転して仰向きになろうとするような傾向があるらしい」。
ツバキの花は元の方が重いので、うつ向きには落ちないのではないかという疑問です。物理学者らしい発想ですね。
ツバキで有名な近くのお寺の庭。仰向きに落花しています
尊敬する先生の俳句と科学的真実の矛盾に悩んだでしょうね。寅彦は観察と実験を試みます。そして、「木が高いほどうつ向きに落ちた花よりも仰向きに落ちた花の数の比率が大きいという結果になるのである。しかし、低い木だとうつ向きに枝を離れた花は空中で回転する間がないのでそのままにうつ向きに落ちつくのが通例である」という結果を得ます。
低い枝から落ちれば回転する暇がないので、鉢を伏せた状態で落ちるというわけです。
お寺の庭にもうつ向きの落花がいくつかありました
そして、「この空中反転作用は花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率等によって決定されることはもちろんである。それでもし虻が花の芯の上にしがみついてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動しその結果はいくらかでも上記の反転作用を減ずるようになるであろうと想像される。すなわち虻を伏せやすくなるのである」と続けています。
さらに、「自分はこういう瑣末な物理学的の考察をすることによってこの句の表現する自然現象の現実性が強められ、その印象が濃厚になり、従ってその詩の美しさが高まるような気がするのである」と結んでいます。
寺田寅彦は物理学者として大きな業績を残しながら、文学や西洋音楽にも造詣が深く、漱石の小説の中にもモデルとして登場するそうです。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉といわれています。
漱石の俳句についての岩波新書を読んだことがありますが、俳人としては並だったとその人は書いていました。
寺田寅彦は本は1冊だけ文庫を持っているけどまだ読んだことがなくていつか読もうと思っていたのでひとまずその本を出してきます(笑)。
ツバキはあまりしぼまないまま落ちるのですね。
ムクゲはしぼんでぼとっと落ちますね。
確か、死を連想するので、ツバキは病院の見舞いには不向きと言われていたと思います。
漱石の俳句については全く無知ですが、これは漱石らしい、少しユーモアのある句だなと思いました。
寺田寅彦はおもしろそうな人物ですね。